かりそめお見合い事情~身代わりのはずが、艶夜に心も体も奪われました~
番外編「一から教えてあげようか」


その日の俺は、いつもより少しだけイライラしていた。


「──では、そういう手筈でよろしく頼む。そっちには夕方戻る予定だ」
《承知しました。……あ、社長、もうお昼ですよ。昼メシちゃんと食べてくださいね!》


“忙しい”やら“面倒くさい”という理由で食事を抜きがちな俺の性格を熟知している部下に電話口で念を押され、苦笑しながら「わかったわかった」と返し通話を切る。

言われなければ気づかなかったが、スマートフォンの左隅に表示されている時刻はたしかに正午を過ぎたところ。
自分の健康にまで気を配ってくれる部下の小言をたまにはちゃんと聞いてやるかと、目についた定食屋ののれんをくぐった。

昼時ということもあり、店内はそれなりに込み合っている。案内されたカウンター席に腰を下ろして自然と肩の力を抜いたとき、右隣から声がかかった。


「こんにちは、奥宮社長」


役職付きで名前を呼ばれ、驚きながらそちらへ顔を向ける。


「……立花専務」
「奇遇ですね、奥宮社長も昼休憩ですか?」


あまり広くもないカウンターで偶然隣同士になっていたのは、取引のある銀行の役員をしている中年男性だ。

……ツイてない。まさか食事の席で、仕事関係の人間と会ってしまうとは。

別にこの男性自体がどうというわけではないのだが、やはりこれからひと息入れようというタイミングで仕事とかかわりのある人物と顔を合わせてしまうと、多少気落ちする心は止められない。

けれどもそんな心境はおくびにも出さず、ニッコリとビジネス用の笑顔を浮かべる。


「はい、ちょうど諸用がひと区切りついたところで……専務も、おひとりで?」
「ええ。職場から近いので、ここはよく利用しているんですよ」
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