いつの間にか結婚したことになってる

2 今私、結婚どころじゃないんです

「ひええ!」
 一歩席を離れた途端、撫子は情けない声で悲鳴を上げてしまった。
 本気で信じたわけではなくとも、ここはあの世行きの列車の中らしい。多少おどろおどろしいものが出ることは覚悟していたはずだった。
「これもワンダーランドっていう」
 無理やり開き直った撫子の前には、そこはあらゆる動物たちが集っていた。
 スズメやネズミがいるのはまあいい。カメレオンやペンギンがいるのもこの際珍しくはないとしよう。
 しかし壁や床や天井にまでびっしりと張り付いている虫たちには、ちょっと悪寒を覚える。
 撫子はどこかで聞いたことがあった。地球上の生き物の大多数を占めているのは虫だと。今更ながらその真実をこうして見せつけられるとびっくりする。
 しかし生前かなりのボロ屋に住んでいた記憶が浮かんできて、その頃の虫との同居生活が再来したと思えばどうにか悲鳴を飲み込むことができた。
「人間だ」
「人間」
 ざわざわと動物と虫たちが言葉をこぼす。
 撫子は彼らが言葉を話したことに驚いた。怖っ!と一歩後ろに下がった。
「そうそう。受けるー」
「ありえないよねー」
 でも彼らが撫子に意識を向けたのは一瞬で、すぐに自分たちのおしゃべりに戻っていた。
 しかもたまたま耳に入ったのはゴキブリ同士の現役女子高生みたいな口調だった。撫子とて女子高生の端くれ。何を同年代にびくびくしていると、多少気が大きくなる。
「あ、どうも。お邪魔します」
 ただゴキブリ相手に喧嘩したくはないので、とりあえず丁重にお願いして通路を通らせてもらう。
 どうやら撫子とオーナーがいた席以外は座席すらほとんどないようだった。動物たちは思い思いに座ったり立ったりして列車に揺られている。
 謝りつつ通路を歩いて車両の端までたどり着いたところで、撫子ははたと手を打った。
「すみません。人間はどこでしょう?」
 辺りを見回しても人間らしい人間がいないので、撫子は温厚そうな大型犬に尋ねた。
「ああ、人間はこの列車の最後尾だよ。一人で行けるかい?」
「そうなんですか。後ろの方ですね。ありがとうございます」
 紳士的に答えてくれた犬に感謝を述べて、撫子は列車を進行方向とは逆に向かって進む。
 幸い通路に小さな生き物はいなかったので、踏む心配はなかった。扉を開けて、隣の車両に移る。
 次の車両も似たようなワンダーランドだった。撫子はそれを横目に見ながら進むが、ざわめきに耳が慣れてくると気づいたこともあった。
「俺、試しに人型になって生活してみようと思うんだ」
「ああ、いいかもね。君どこに滞在するの?」
「さあ。行ってからのお楽しみなんだ。送迎してもらえるから安心だよ」
 みなさん、これから遠足に行くかのようにうきうきしている。
 本当に死んだんですかと訊きたくなるほどに明るい。ガサガサと動き回る虫たちの声は小さくて聞きとれないことも多かったが、何やら興奮が伝わってくる。
 撫子は窓の外を眺めて思う。
 外は真っ暗で、何も見えない。トンネルの中なのかもしれない。
 車内は赤茶色の光が灯っていて、暖かかった。たぶん夜行性の動物がいるからか、暗いスペースもある。
 列車としては撫子の頭がつくかつかないかの低さだが、ほっと心が和らぐ空間だった。撫子がお酒の飲める年だったら、動物たちと一緒に飲みかわすくらいしたかもしれなかった。
「あ」
 いくつかの車両を歩いている内に当初の目的を忘れていた。結婚という大事な決断を目の前にして、アニマル天国に癒されている場合ではなかった。
「どうしようか」
 それはまあ、生きている間なら「死ぬくらいなら何でもします」と土下座してありがたく結婚させてもらった。だが今の撫子は既に死んでいるらしい。無理にあの世に在住しなくても、たとえば生まれ変わるのも悪くないのでは?
 しかし古今東西、生まれ変わることができるかははっきりしない。死んでそのままおしまいというならちょっと粘りたくなる。
 撫子がそんなことを考えている内に、開かない扉の前に辿り着いた。
「運転車両かな?」
 窓を開けて後ろをのぞいてみるが、どうやら貨物車両のようだった。一般車両からは入れないようにできている。
――貨物車両には近付かないようにしなさい。
 オーナーが言ったことを思い出して、撫子は窓から体を引っ込めようとする。
「んっ?」
 突然上に引っ張られて、撫子は反射的に窓枠に体を突っ張った。
「え、えええっ!?」
 ところが上に引っ張る腕が増えて、撫子の足は床から離れた。
 ばたばたと足を振ったが、一度離れてしまった地面は戻って来るはずもなく。撫子は有無を言わさず屋根の上に引っ張り上げられてしまった。
「来るんだ。あんた人間だろう」
「俺たちはあんたと同じ。仲間だ」
 車両の上には男の人が三人ほどいた。彼らが言う通り、オーナーのようなアニマル的特徴を持っていない、普通の人間だった。
「貨物車両に来てくれ。話がある」
「い、いえ。貨物車両には近付かないように言われていて」
「あんた死にたいのか」
 あれ、脅されてる? 撫子が喉を詰まらせると、男たちは撫子の脇を抱えて連れて行く。
「え、ちょっ、待っ!」
「どうやらあんたはまだ若いらしい。命の大事さがわかってないようだ」
 屋根伝いに貨物車両に運ばれていって、天井に空いた穴から中に落とされた。
「いたた」
 天井が低いのでまだよかったが、それでも尻もちをついたので多少痛い。
「これで人間は全員集めたか?」
「そのはずだ。後は動物だけだ」
 貨物車両の中には十人ほどの人間がいた。男女の差はあるものの全員若い。二十歳から三十歳くらいの間の健康そうな人たちばかりだった。
 撫子は不穏な空気を感じ取って、恐る恐る問いかける。
「あの……みなさん、どうして貨物車両に?」
「閉じ込められたんだよ」
 撫子を連れてきた男の一人が悔しそうに言う。
「背中に羽が生えていたり、顔が牛でできてる化け物連中にな。奴らは俺たち人間を目の敵にしてる」
 別の女の人もうなずいて続けてくる。
「私たち人間は貨物車両で動物は一般車両よ? 人間を恨んでるんじゃないかしら」
「……うん?」
 撫子は一般車両の動物たちを思い出して間抜けな相槌を打つ。
 彼らは最初、人間の撫子を不思議そうに見た。でもすぐに興味を失った。彼らの興味はこれからの旅行にあるように見えた。
 禍々しい空気をまとっているのは、むしろここにいる人間だけのように思った。
「確かに猫耳の御方なんかは言ってること変わってましたけど。途中の駅で降りて結婚しようとか」
「馬鹿か。奴隷みたいにこき使われるに決まってるだろう」
 撫子のつぶやきは一蹴された。肩をつかまれてかわいそうなものを見る目で見られる。
「奴らは変な術を使う。奥の連中を見てみろよ」
 明かりの届かない貨物車両の奥の方には、壁にもたれかかっている数人の男女がいた。
 彼らは手足を投げ出して、幸せそうに遠くをみつめている。中には小さく鼻歌を歌っている人もいた。
「列車に乗せられる前は元気だったんだ。けど家に帰してくれって少し騒いだら、霧みたいなものを浴びせられてこうなった。話しかけてもほとんど反応しやしない」
 撫子は黙って頭を押さえる。
「死にたくないって渋るのは人間なら当然だろう? それを普通、廃人みたいにして列車に放り込むか?」
 さきほどから、撫子はうなずくにうなずけなかった。
 死にたくない。彼らの言っていることは普通のようで……彼らが放つものは黒い悪意のように思えてくる。
 撫子の直感は当たってほしくなかったのに、彼らの一人が恐れていた言葉を告げる。
「逃げるぞ。この列車を脱線させて、その隙に脱出する」
 思わず撫子は立って声を上げていた。
「だめです!」
「大丈夫だ。直前に運転車両に行く連中から合図がくる。大した速度で走っちゃいないから、せいぜい倒れるのは前の方の数両だけだろう。俺たちは壁にでもつかまってりゃいい」
「前の方の車両にだって大勢乗ってるんですよ!」
 虫だけで数千体は乗っているはずだった。列車が倒れたらひとたまりもない。
「人間じゃないだろ。知ったことじゃない」
 誰かの一言は、撫子の心の柔らかいところにさくっと刺さった。
「あと数刻で実行に移す」
 撫子は血の気が引く音が聞こえた。
 撫子は動物が好きな方だとは思うが、虫は苦手だし、いなくて困るほどじゃない。
 生きていた頃だって、動物や虫が死ぬのはそこまで心痛めていなかった。普通の大勢の人間らしく、ちょっと悲しくなるくらいだった。
「あっ! どろどろおばけ!」
 でも今、胸に走ったのは激痛だった。撫子はあの世だとしゃれにならない嘘っぱちを叫ぶ。
「なっ!」
「ええい! 止めると蹴りますよ!」
 一瞬彼らの目が逸れた隙に、撫子はおもいきって屋根に飛びついた。
 傷つけたくないと願ったのは、遠足のようにはしゃいでいたネズミだったり、女子高生みたいな口調で話すゴキブリだったり……笑顔でシビアなことを言う猫耳のオーナーだったり。
 とにかく撫子は人間にはあるまじき方に心の天秤が傾いて、しかも振り切れてしまった。
 屋根が低いのは幸いすることだってある。撫子は貨物車両の屋根によじのぼると、一般車両の窓から中に入る。
 一度息を大きく吸って、叫ぶ。
「脱線します! 何かにつかまって!」
 大声で呼びかけながら、全力で前方車両へ向かって走る。
「窓を閉めて! 荷物置きから離れて!」
 思いつく限りの注意を叫ぶ。左右に顔を向けながら駆ける。
 どこの車両も動物や虫でいっぱいだ。撫子はそんな車両を十両は歩いてきた。あと何分で脱線するか考えただけで焦る。
 自分がしていることは人間として間違っているのかもしれないと思った。けど、撫子の心が脱線はだめだと叫んだ。正しいかどうかは、今は横に置いておくことにした。
 自分が何両目の車両に乗っていたかも忘れて、こんなに力いっぱい走ったことがあったかというくらい息を切らしていた、そんなとき。
「黙れ!」
「んぐ!」
 突然後ろから羽交い絞めにされて、撫子は口を塞がれた。
 息苦しさにあえぐ撫子に、後ろの男が冷えた声で言う。
「あんた、人間じゃないな」
 そのまま力いっぱい首を締め付けられる。撫子は苦しさと恐怖に、意識が黒くぬりつぶされていく。
 まだら模様に黒く染まる視界の中で、運転車両が透けて見えた。
「う……!」
 今まさに後ろから殴りかかられそうとしている、運転手の姿。
 それはしちゃいけないことだよ。撫子の心が弾けるように叫んだ。
「いいよ人間じゃなくたって!」
 撫子は渾身の力を振り絞って男のみぞおちに肘鉄をくりだすと、男を突き飛ばして走る。
「運転手さん、後ろ!」
 運転車両の扉を叩いて叫ぶ。振り返った牛頭の運転手は、いつの間にか運転室に入って来ていた男たちを見て目をぱちくりとした。
「おや、行き先の変更ですか?」
 呑気な声を出す運転手を男の一人が壁に追いやって、もう一人が大きくハンドルを切った。
 キキキキ……ッと列車の車輪が掠れる音が響く。
 傾く車両。反転する視界。
 撫子は遠心力で壁まで吹き飛ばされる。
 ……と、それだけでは済まなくて。
「うわぁぁぁっ!」
 開いていた窓から体がすっぽ抜ける。
 つかまるものを求めて指先が空を切った。体が落ちる直前の、頼りない浮遊感が撫子を包む。
「はぁ、はっ……!」
 何とか車両の窓枠に手が引っ掛かって、撫子は車両にぶら下がる形になる。
 左右に揺れていた運転車両の中から、黒い影が二つ飛び出てきたのはまもなくのことだった。
 ぶらさがっているという非常事態でなければぎょっとしたに違いない。それは鳥頭で、背中に大きな黒い翼を生やしていた。
 彼らは先ほど脱線させようとした男たちを軽く片手でつかんでいて、ゆるりと外に出る。
「やめろぉ! 離せぇ!」
 列車はいつの間にか橋の上を走っていた。撫子は見るまいとしたが、ちらっと下方に川が見えた。澄んだ水面が遥か下でゆらいで、中にはクジラほどもある大きな魚が泳いでいた。
「乗車拒否をいたします」
 人型をした鳥たちはぺこりと一礼すると、男たちを川に向かって落とす。
 断末魔の悲鳴はすぐに遠ざかって行った。川はまるで彼らを吸い込むように音もなく受け入れて……波すら立てずに元の流れに戻った。
「昼飯どうする?」
「俺、ちょっと昼寝してから食堂行くわ」
 鳥たちは車両にぶら下がっている撫子に気づくことなく、仕事は終わったとばかりに肩を回して車両の中に戻って行く。
 列車は揺れる。撫子は手がしびれてきて、ぷるぷると震えだす。
「誰かー!」
 自力では這い上がることはできそうもない。撫子は運転手辺りが気づいてくれることを祈りながら声を張り上げたが、返答はない。
 電車は何事もなかったかのように運行している。窓から動物が落ちた様子もなく、騒動を起こした者だけを吐き出したかのようだった。
 騒いだといえば撫子もまぎれもなくその一人なわけで。手の震えが全身に伝わった辺りで、撫子はその事実にも追い付かれた。
「貨物車両の人間と関わるからこうなるんですよ。あそこは自分の死を認められない連中を入れておくところなんですから」
 ふいに列車の上から声が聞こえた。
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