九羊の一毛
想定外の口論が始まってしまって、しまいには「馬鹿」ときた。
う、と二の句が継げず口を噤んだ俺に、彼女が踵を返す。
「帰る!」
「えっ」
やばい、怒らせた。振られるのは想定してたけど、このパターンは流石に予想外だ。
「待って! ごめん、ほんと、お願いだからちょっと待って」
急いで追いかけ、背中に呼びかける。振り向かない。彼女の足は進む。
「好き!」
俺が叫んだ瞬間、すれ違った人がぎょっとした様子でこっちを向いた。
それでも肝心の彼女は止まってくれないから、ますます焦る。
「西本さん、好き! ほんとに、めちゃくちゃ好きだから! ごめん、もっかいちゃんと顔見て言いたいから! お願い!」
人目も気にせず叫んだ。なんかもう情けなさすぎて泣けてきたし、散々だ。
ようやく目の前の小さな背中が立ち止まって、ほっと胸を撫で下ろす。
彼女は振り返ると、俺の顔を見て僅かに目を見開いた。
「……泣きすぎだよ」
「だ、だって、止まってくれないし……」
「誰のせい?」
「俺の、せい……」
こんなぐだぐだなことある? いや俺が悪いんだけどさ。
すん、と鼻を鳴らす俺に、彼女は容赦なく問いかけた。
「で? 顔見て言いたいことって何?」