九羊の一毛
電車に乗って、駅から歩いて数分。
アパートの二階、手前から三つ目のドアの前で立ち止まって、インターホンを押した。
「羊ちゃん?」
「あ、うん! そうです……!」
「いま開けるね」
そんな会話をして十秒も経たないうちに、内側からガチャ、と物音が聞こえる。
ドアが開いて、相も変わらず端正な顔立ちの彼が姿を見せた。
「いらっしゃい。ああ、荷物持つよ」
「ご、ごめんね、ありがとう……お邪魔します」
軽く頭を下げて中に踏み入る。
大学生になってから、初めての夏休みがやって来た。
前期のテストを終えて安堵していた私の元へ入った連絡は、動揺を誘うに十分すぎる内容で。
「羊ちゃん、今日の夜食べたいものとかある?」
「えっ⁉ あ、うーん、そうだね……えっと」
ちょうど今夜のことについて思案していたものだから、彼に話を振られて少し驚いてしまった。
なぜ「夜」を警戒しなければならないのか、それは――
『せっかくだし、泊まっていきなよ』
他でもない、数日前の彼のそのセリフのせいだった。