九羊の一毛
胸の一番奥に大事に、頑丈に閉じ込められた彼女の言葉。体を内から焦がすようでいて、柔らかく包み込んでくれる。
背中を押されている、と思った。
俺の原動力は笑ってしまうほどいつも彼女ばかりで、どんなに億劫で厳格な壁でも乗り越えられるような気がしてしまう。
ベッドから降りて部屋を出る。階段を随分と緩慢に下って、リビングに入る手前でも躊躇した。
ソファに座ってテレビを眺める人影。深く息を吸って、なんてことないように背後から声を掛ける。
「おかえり」
たった四文字。内心穏やかではなかったが、それは声色に影響せずに済んで安堵した。
俺が言った瞬間、弾かれたように振り返ったその顔には、驚愕の色が滲んでいる。
「玄……」
ただいま、と返ってきた挨拶は呆けたようなもので、今更ながら気まずい。
「……母さんは?」
「え? あ――ああ、いま、風呂に……」
「ふーん」
正解が分からなかった。それくらい彼との間には確実な溝があって、もう数年、埋める努力を怠ったまま今に至る。
自分が子供だったのか。自分が悪かったのか。それは完全に曖昧で、謝罪も感謝も的を得ていない。
沈黙が落ちる。先に目を逸らしたのは向こうで、以前なら間違いなく俺が先に逸らしていただろう。
黙りこくったまま近付いて、ソファの上、彼の隣に腰を下ろした。相手の方は見ず、前を見つめたまま口を開く。
「明日、休み?」