男装の姫君は王子を惑わす~麗しきアデールの双子
62、夜月を確保せよ⑥
ロゼリアはクロの後を追いかけた。
森の中を走り、うねる根や、細かな枝や、ぬかるんだ腐葉土の中を、ひらめき揺れる赤を頼りに走る。
途中、猟犬の群れと遭遇する。クロは上を飛び越えた。
「わたしは獲物ではない!」
ロゼリアは怒鳴りつけた。
猟犬はロゼリアの気迫に押されて、背後の犬飼を気にするが、ロゼリアの横を走り抜けていく。
今、猟犬が狙っているのは獲物は人ではない。
だが、早く捕まえないと、ロゼリアがイノシシに遭遇する可能性も高くなっていく。
アデールの森には奥深くに山熊がすむ。おそらくこの森にも。
山熊に遭遇すれば、逃げても必ず追いつかれる。
木に登っても引きずり降ろされる。
山熊は普段は臆病だ。
だが、状況がそろうと山熊は人にとって最悪の脅威となる。
クロをあきらめるべきだとロゼリアは思う。
得られる利益と、そのことによる損害とをはかりにかけよ、と授業で習わなかったか。
クロを捕まえることで、ロゼリアが得る利益はなんなのだ。
毎朝、挨拶をしてくれて、なついてくれて、手ずから餌を食べてくれる。
ぐっと、ロゼリアは歯を食いしばった。
クロは、ジルコンが自分をえこひいきするからといって、遠巻きにすることはない。
なんとなくやりたいことが邪魔される、そんな意地悪などしない。
まっすぐ自分をみて、可愛がれば、返してくれる。
エール国にきて、友人となったベラの、その次にできた貴重な友人。
その友人が、無残に狩られる対象なのが耐えられないのだ。
だが、これ以上進めば森に迷ったり、穴に落ち込んだり、危険な動物に襲われたりするかもしれない。
もうあきらめるべきだと、理性は告げている。
利益と損害のバランスがとれていない。
いや、この場合は、利益もなく、自分が怪我をしてジルコンたちの迷惑をかけるという害だけしかないではないか。
突如、クロの追跡は終わる。
クロは木の上に止まったのだ。
頭上より高い楠の木の、大枝を掴んだ足に結んだ赤いリボンは、大地にぱっくりと開いた闇の中へはらりはらりと落ちていく。
森が突然、空に分断されていた。
巨大な大地の割れ目が、目の前にあった。
向こう岸にも森が続く。
クロは崖を飛び越えて向こうの森へいくかどうか考えているようだった。
ぐるぐると鳴いている。
「クロ!こっちに来きて。……ほら、お前の好きなリンゴを持ってきてるよ。食べるでしょう?」
ロゼリアは懐から包んだリンゴを取り出した。
肌で生暖かくなったリンゴは変色していたが、この際構わない。
クロはロゼリアをみた。すかさずひとつクロの口元を狙って投げた。
クロは毎朝の習慣で、飛んできたものが何かわかるとくちばしを大きく開いてぱくりと食べた。
「ほら、まだあるから、こっちにおいで」
クロは崖の向こうから、完全に意識をロゼリアに向けていた。首を傾け、近づくかどうか迷う。
ロゼリアの背後からついてきている者がいた。
ロゼリアよりも荒く、ぜえぜえと喘ぐ息遣いはジムではない。
「アン、そのまま、絶対に、動くんじゃない」
その声はエストだった。低い声が、苦しさと緊張でかすれている。
それは恐怖だとロゼリアは思った。
その理由を振り向いて確認したいが、エストの恐怖に、身体が地面に縫い付けられた。
「崖から飛びおりようとは思ってないよ。クロをここで確保する」
「そうじゃない」
そうろりと、エストが近づいてくる気配。
驚ろかせることのないように。
クロに対して慎重すぎるとロゼリアは思った。
そのクロは、エストではなく、ロゼリアの足元を興味が引かれるものがあるかのように、首をくくくと傾げて見る。
「そのまま動くな。見たこともないほど大きなマムシがいる。あんたは、マムシの尻尾を踏んでいる。いつ飛び掛かられてもおかしくない状態だ」
「う、そ」
「そのまま踏み続けるんだ」
ロゼリアは急に息ができなくなった。
しゃりりとナイフが抜かれる音がする。
エストは反射神経はどうだったか。いや、そんなに良い方ではなかったように思う。
毒蛇からロゼリアを助けるほど、仲が良かったか。いや、ただの学友だ。友人と呼べるほどのものでもない。
鶏でわずかにつながっただけなのだ。
遠くで、アンさま、返事してください!とジムの声の必死な声が聞こえる。
間歇で聞こえるその呼び声は、希望にしがみつきたいロゼリアには、だんだんと近づいてきているように思う。
「ジムが助けに来てくれる」
刺激しないようにロゼリアは口先だけで言った。
暑さからではない冷たい汗が背中を流れていく。
足裏が手首ほどあるのではないかと思われる太いものを踏んでいる感覚は確かにあった。
もぞりもぞりと蠢いているのも、感じられた。
この太さだと、二メートルはありそうなマムシの大蛇である。
そいつは、踏まれていることに気が付いていない。
恐怖にロゼリアの奥歯が細かく打ち合いはじめた。
「それだと間に合わない。そのまま踏み続けていてほしい」
エストがマムシの気をひくために何かを遠くに投げた。
マムシ独特の、威嚇する音と匂い。
足裏からずるりと抜けようとする気配に、ロゼリアは命の限り、踏ん張り踏みつけた。
絶対にマムシを逃すつもりはない。自分は、マムシの動きを封じるくさびだった。
羽をまとい鶏を愛し、美しく優雅なものを愛するエストが、マムシと戦う姿など想像できなかった。
それも、ロゼリアを助けるために。
エストの荒い息、くぐもった悲鳴に、地面に倒れる音。
何が起こっているのかエストの無事を確認せずにはいられない。
ロゼリアは体をひねった。
その時視界を青く輝く黒い羽が覆った。
倒れたエストの腕に巻きついた太い蛇の胴体に、爪のある足でつかみかかる。
エストにかみつこうとした蛇は、鎌首をクロに向ける。
クロは飛び上がり距離をとり、再び、足でけりつける。
マムシはエストを離し、クロに大きく口をあけて飛び掛かる。
その時、反対側の崖の方から大きな羽音と共に、大きな黒い翼がエストとロゼリアの間に降り立った。
加勢が入ったのだ。
黒い鶏が二羽、鋭い蹴りと爪で、マムシと戦っていた。
クロよりも、加勢した黒鶏の方が、繰り出す蹴りや威嚇の声が、激しく勇ましい。
闘鶏で対峙する鶏も怖気づくような、狂暴さであった。
オス鶏は、死ぬまで戦うこともある激しい生き物だった。
ロゼリアは足を離した。
黒鶏二匹と、マムシでは、マムシはもはや餌でしかなくなっている。
危機は脱したのだ。
地面に尻を突いたまま、呆然とエストはその光景をみていた。
マムシを狩り喰らうオスの黒鶏の足には、銀の輪が輝いていたのである。
森の中を走り、うねる根や、細かな枝や、ぬかるんだ腐葉土の中を、ひらめき揺れる赤を頼りに走る。
途中、猟犬の群れと遭遇する。クロは上を飛び越えた。
「わたしは獲物ではない!」
ロゼリアは怒鳴りつけた。
猟犬はロゼリアの気迫に押されて、背後の犬飼を気にするが、ロゼリアの横を走り抜けていく。
今、猟犬が狙っているのは獲物は人ではない。
だが、早く捕まえないと、ロゼリアがイノシシに遭遇する可能性も高くなっていく。
アデールの森には奥深くに山熊がすむ。おそらくこの森にも。
山熊に遭遇すれば、逃げても必ず追いつかれる。
木に登っても引きずり降ろされる。
山熊は普段は臆病だ。
だが、状況がそろうと山熊は人にとって最悪の脅威となる。
クロをあきらめるべきだとロゼリアは思う。
得られる利益と、そのことによる損害とをはかりにかけよ、と授業で習わなかったか。
クロを捕まえることで、ロゼリアが得る利益はなんなのだ。
毎朝、挨拶をしてくれて、なついてくれて、手ずから餌を食べてくれる。
ぐっと、ロゼリアは歯を食いしばった。
クロは、ジルコンが自分をえこひいきするからといって、遠巻きにすることはない。
なんとなくやりたいことが邪魔される、そんな意地悪などしない。
まっすぐ自分をみて、可愛がれば、返してくれる。
エール国にきて、友人となったベラの、その次にできた貴重な友人。
その友人が、無残に狩られる対象なのが耐えられないのだ。
だが、これ以上進めば森に迷ったり、穴に落ち込んだり、危険な動物に襲われたりするかもしれない。
もうあきらめるべきだと、理性は告げている。
利益と損害のバランスがとれていない。
いや、この場合は、利益もなく、自分が怪我をしてジルコンたちの迷惑をかけるという害だけしかないではないか。
突如、クロの追跡は終わる。
クロは木の上に止まったのだ。
頭上より高い楠の木の、大枝を掴んだ足に結んだ赤いリボンは、大地にぱっくりと開いた闇の中へはらりはらりと落ちていく。
森が突然、空に分断されていた。
巨大な大地の割れ目が、目の前にあった。
向こう岸にも森が続く。
クロは崖を飛び越えて向こうの森へいくかどうか考えているようだった。
ぐるぐると鳴いている。
「クロ!こっちに来きて。……ほら、お前の好きなリンゴを持ってきてるよ。食べるでしょう?」
ロゼリアは懐から包んだリンゴを取り出した。
肌で生暖かくなったリンゴは変色していたが、この際構わない。
クロはロゼリアをみた。すかさずひとつクロの口元を狙って投げた。
クロは毎朝の習慣で、飛んできたものが何かわかるとくちばしを大きく開いてぱくりと食べた。
「ほら、まだあるから、こっちにおいで」
クロは崖の向こうから、完全に意識をロゼリアに向けていた。首を傾け、近づくかどうか迷う。
ロゼリアの背後からついてきている者がいた。
ロゼリアよりも荒く、ぜえぜえと喘ぐ息遣いはジムではない。
「アン、そのまま、絶対に、動くんじゃない」
その声はエストだった。低い声が、苦しさと緊張でかすれている。
それは恐怖だとロゼリアは思った。
その理由を振り向いて確認したいが、エストの恐怖に、身体が地面に縫い付けられた。
「崖から飛びおりようとは思ってないよ。クロをここで確保する」
「そうじゃない」
そうろりと、エストが近づいてくる気配。
驚ろかせることのないように。
クロに対して慎重すぎるとロゼリアは思った。
そのクロは、エストではなく、ロゼリアの足元を興味が引かれるものがあるかのように、首をくくくと傾げて見る。
「そのまま動くな。見たこともないほど大きなマムシがいる。あんたは、マムシの尻尾を踏んでいる。いつ飛び掛かられてもおかしくない状態だ」
「う、そ」
「そのまま踏み続けるんだ」
ロゼリアは急に息ができなくなった。
しゃりりとナイフが抜かれる音がする。
エストは反射神経はどうだったか。いや、そんなに良い方ではなかったように思う。
毒蛇からロゼリアを助けるほど、仲が良かったか。いや、ただの学友だ。友人と呼べるほどのものでもない。
鶏でわずかにつながっただけなのだ。
遠くで、アンさま、返事してください!とジムの声の必死な声が聞こえる。
間歇で聞こえるその呼び声は、希望にしがみつきたいロゼリアには、だんだんと近づいてきているように思う。
「ジムが助けに来てくれる」
刺激しないようにロゼリアは口先だけで言った。
暑さからではない冷たい汗が背中を流れていく。
足裏が手首ほどあるのではないかと思われる太いものを踏んでいる感覚は確かにあった。
もぞりもぞりと蠢いているのも、感じられた。
この太さだと、二メートルはありそうなマムシの大蛇である。
そいつは、踏まれていることに気が付いていない。
恐怖にロゼリアの奥歯が細かく打ち合いはじめた。
「それだと間に合わない。そのまま踏み続けていてほしい」
エストがマムシの気をひくために何かを遠くに投げた。
マムシ独特の、威嚇する音と匂い。
足裏からずるりと抜けようとする気配に、ロゼリアは命の限り、踏ん張り踏みつけた。
絶対にマムシを逃すつもりはない。自分は、マムシの動きを封じるくさびだった。
羽をまとい鶏を愛し、美しく優雅なものを愛するエストが、マムシと戦う姿など想像できなかった。
それも、ロゼリアを助けるために。
エストの荒い息、くぐもった悲鳴に、地面に倒れる音。
何が起こっているのかエストの無事を確認せずにはいられない。
ロゼリアは体をひねった。
その時視界を青く輝く黒い羽が覆った。
倒れたエストの腕に巻きついた太い蛇の胴体に、爪のある足でつかみかかる。
エストにかみつこうとした蛇は、鎌首をクロに向ける。
クロは飛び上がり距離をとり、再び、足でけりつける。
マムシはエストを離し、クロに大きく口をあけて飛び掛かる。
その時、反対側の崖の方から大きな羽音と共に、大きな黒い翼がエストとロゼリアの間に降り立った。
加勢が入ったのだ。
黒い鶏が二羽、鋭い蹴りと爪で、マムシと戦っていた。
クロよりも、加勢した黒鶏の方が、繰り出す蹴りや威嚇の声が、激しく勇ましい。
闘鶏で対峙する鶏も怖気づくような、狂暴さであった。
オス鶏は、死ぬまで戦うこともある激しい生き物だった。
ロゼリアは足を離した。
黒鶏二匹と、マムシでは、マムシはもはや餌でしかなくなっている。
危機は脱したのだ。
地面に尻を突いたまま、呆然とエストはその光景をみていた。
マムシを狩り喰らうオスの黒鶏の足には、銀の輪が輝いていたのである。