男装の姫君は王子を惑わす~麗しきアデールの双子

4、蛇革のベルト ②

 その夜。
 ロゼリアは部屋に戻ると扉外の足音に耳を澄ませた。
 授業の後に少し外出して帰ってくるもの、風呂に入りに行くもの、戻ってくるもの。
 談話室にぶらりといくもの。
 足音や会話が近づいては離れていく。
 それもだんだんと少なくなっている。
 掃除をする者たちも一日の仕事を終えていた。
 もう遅い時間である。
 部屋に戻り就寝の準備をするころであった。

 ロゼリアは少し扉を開き外の様子をうかがった。廊下には油ランプが等間隔に灯されていて静まり返っている。
 真夏とはいえ、夜になると山手の森の傍の寮はひんやりとしている。
 夜着の上から薄いショールを羽織り、部屋をするりと抜け出した。門限があるわけではないが、夜に出歩くことはめったにない。夜は不測の事態が起こりやすくなる。用心のためだった。風呂でさえも、ロゼリアは食事を終えてすぐの時間帯の、まだ誰も入りたいと思わない時間帯に入っている。
 今夜は特別であった。

 廊下の突き当りがロゼリアの目指す先である。
 軽く叩くと低くいらえがあり、しばらくしてわずかに扉が開く。
 部屋の住人は誰が扉をたたいたのかを知って、眉をくっきりと上げた。
 生まれとともに授けられた名とは別の名前が口にされる前に、ロゼリアは薄い隙間から部屋に滑り込んだ。

 ジルコンはさらに目をみはるが、ロゼリアを拒絶するようでもなく横によけてスペースを作る。
ロゼリアが部屋に入るのを見届けると扉を閉め、鍵をかけた。
 はじめて足を踏み入れたジルコンの部屋は、ロゼリアの部屋よりも随分大きい。
 家具調度はロゼリアの部屋と同じマホガニーの重厚なものだが、入ってすぐの部屋にはベッドがなかった。
 応接室と勉強部屋であり、奥に寝室があるようだった。

「強国の王子の部屋は特別仕様なんだな」
 ロゼリアはぐるりと見回して言う。
「なんだ?ようやく俺の部屋の扉を叩いたかと思ったら、自室の狭さの苦情をいいにきたのか?俺は今の今まで親父に呼び出されていたんだ」

 ジルコンはまだ昼間と同じ黒地の上下にブーツをはいたままである。
 その顔は昼間に王子たちと学ぶときと違って、疲れた顔をしていた。
 取り繕ったところのない、素の顔だとロゼリアは思う。
 素顔をみせられる相手なのだと思うと少し嬉しい。

「何か問題があるの」
「ああ。D国王がエストを帰国させよと言っている。怪我をさせるとは何事かってな。脱落者がでるのはしょうがないがエストには厳しいことを言った手前、このまま帰国することになったらわだかまりだけ俺たちの間に残すことになるから、非常に残念なんだ」
 ジルコンが言っているのは薬樹公園での一件であった。
「エスト殿は大丈夫だと思う。これからは自分の思うように自分の人生を歩むと言っていたから。何のわだかまりもないと思う。帰国しない理由を、彼から伝えてもらったらいいと思う」

 ジルコンは襟からタイを引き抜き、ボタンを外しにかかっていたがその手をとめた。
 じっとロゼリアを見つめた。

「……狩り以来、アンはエストととても仲が良くなったんだな」
「彼は命の恩人でもあるし。僕にやっと友達ができたんだ。喜んでほしいぐらいだよ」

「エストがアンと友人か。噂は本当だったんだな。ノルとバルドがエストに腹を立てていた。エストはアデールの王子に惑わされたって」
「惑わす!?僕がいったい何を惑わすって。エストは自分から変化することを選んだのであって、僕がどうこうしたわけでもなんでもないのに」
 ひどい言われように憤慨する。
「おい。本当にそう思うのか?」

 ジルコンは片眉をあげた。何かを言いかけて、ジルコンはやめた。
 もう遅い時間である。夜に人目をしのんでくるとはただ事ではないはずなのだ。

「それより、こんな夜更けに俺の部屋に来たのは、何か問題が起こったんだろ。俺にどうして欲しいんだ?一体何が起こったんだ」

 ジルコンは、何か俺の助けが必要な時はいつでもこいと言っていた。
 頼ってくれるのが嬉しくもある。
 初めての訪問に、ジルコンはロゼリアにソファをすすめ、落ち着かせる必要があるときのために、吹きガラスの色変わりの水差しから水を青磁のカップに注いだ。
 実は、この部屋のささいな物が大変貴重なものであったりする。
 まだ貿易が確立しているとはいえない、草原のさらに東方の国々伝来の物だったりする。
 この薄手の高温で焼きしめた青磁の器や、かつてロゼリアの瞳のようだと思ったくるくる美しい模様を変化させる万華鏡も、その一つである。
 万華鏡を覗き込む度に、ジルコンはあの時の少女を思い出す。
 今は部屋の机の一番上の引き出しの中にしまい込まれていて、のぞき込むことはないのだが。

「問題ではなくて、ジルにちょっと用事があったんだ。その……」

 ロゼリアはすすめられたソファに座りもせずに、言いよどんだ。
 普段とはちがう歯切れの悪さに、ジルコンがロゼリアを凝視する。
 さらに居心地が悪くなる。
 あれだけ、早く渡したくて、うずうずしていたのに、今となっては部屋にずうずうしくも入ったことにロゼリアは後悔した。
 差だされたコップを所在なげに少し口につけてソファ前のテーブルに置いた。

「どうしたんだ?何も用がないのなら、そういえば……」
 ジルコンは不意に何かを思い出したようで、くるりとロゼリアに背を向けて、再び水差しのおいている机の方に行く。
 ロゼリアはこれ以上引き伸ばすまいと決意した。
 ベルトはずっと手に持っている。
 むき出しのまま、もってきてしまっていた。
 普通、お礼のプレゼントなら、きれいに梱包するべきだったのではと今更、悔やまれた。
 せめてシリルが包んでくれていた薄紙に包みなおすか、まだ残っているアデールの赤のリボンでも結ぶべきだった。
 だがもう、勢いに任せてジルコンの部屋に来てしまっている。
 今夜は一日の終わりに何度も後悔しているような気がする。
 
 ロゼリアは意を決した。
 机に向かうジルコンの背後へ近づいた。
 ジルコンのベルトは黒くて硬い水牛の革ベルトだった。
 ジャラリと鎖が下がる。その鎖はナイフや大事なものを下げるものだが、全て取り払われていた。
 手を伸ばしてジルコンの腰骨の上のあたりのベルトに触れて触感を確かめる。
 思った以上に固かった。
 ジルコンの身体が硬直する。
 引き出しに伸ばされていたジルコンの手は、そのまま目的を喪失したかのように動きをとめた。

「ベルトをはずしていい?」
 ロゼリアは言う。
 軽く促すと、ジルコンの身体は容易にくるりと回転し、二人は向かい合う形になる。
 ベルトにロゼリアは両手をかけた。
 何をしようとしているのかを察して、ジルコンの身体が力を失い後ろへ揺らぐ。
 その身体を支えたのはマホガニーの机。
 ジルコンは両手で机のヘリをにぎりこんだ。

「……人目を忍んで俺の部屋に来た理由ってこれなのか?」
 呆然とジルコンはつぶやき、ロゼリアの顔を凝視する。
 その声は低くかすれ震えたのである。
 





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