男装の姫君は王子を惑わす~麗しきアデールの双子
74、高嶺の花 (第七話 完)
泉のほとりも夕刻になり、日がかげりだしていた。
鷺やカモたちが水辺に戻ってきていた。
セキレイがちょんちょんと走っては止まり、走っては止まりを繰り返し、踏み荒らされた泥濘の上にちいさな足跡を残して走り去っていく。
もうここにはウォラスしかいない。
ウォラスに手を貸すものは誰もいなかった。
一人残されて随分時間がたっていた。
誰も探しに来るものはいない。
この哀れな結末は、自分の悪ふざけが招いた自業自得であった。
ジルコンにもとうとう見捨てられたように思う。
あのように蔑まれ見下された目で見られたのは初めてだった。
今まではどんなに斜めな発言をしても面白がられ諭されたりはしても、友人だった。
だが、その友人関係も本当に終ってしまった。
最後の最後で、アデールの王子が女である秘密を知り、彼、いや彼女をいたぶるのをやめて、暴力の身代わりになった。ノル達がアデールの王子の秘密を知ったときよりも、よかったと思うのだが、そもそも彼らに暴挙をそそのかした自分がいうものでもないことだった。
このまま夏期スクールに残れば、参加者は己を卑怯もののようにこれからみるだろう。
この場にもいられなくなったら、一体自分はどうしたらいいのかわからない。
責任を持たなくてもいい気軽な身分の王子という身分は、残り猶予がたっぷりあるわけではない。
第5王子の自分は国にとっても無用の長物なのだ。
かといって、事業や外交にがむしゃらに精進するような熱心さもあるわけでもない。
愛してもない女の紐になるのも、常に感じている退屈な日常の延長にすぎないだろう。
愛でさえ、この外見の秀麗さと美辞麗句に惑わされた女たちとの、ただの行為に過ぎない上っ面だけのものに過ぎない。
価値のないものほど簡単に手に入り、そして、手にいれたときと同様に簡単に手放してしまえるものなのだ。
手放したくなくなるほど価値のあるものは、自分には何もない。
第五王子という身分でさえも、親が与えた高価な装飾品にすぎなかった。
重い身体を引きずり、血と泥で汚れた服をさらに泥だらけにしながら這い進む。
肋骨が折れている。息をするのが辛い。
自慢の顔や内臓が大丈夫かどうか心配するよりも、泉に体を沈めるのがよさそうだった。
自分の命にわずかな価値も見いだせない。
退屈すぎて死にそうなら、死んでしまうのがいいのではないか?
なぜそのことに気が付かなかったのか不思議なぐらいだった。
自分の手で、自分の終点をつけるのが最後の退屈な仕事だと思った。
「……こんなところにいたのね」
ウォラスはそのまま固まった。
誰かが自分を探しにくるとは思わなかった。
その声が普段の声よりも華やかさがなくて低くて震えていても、振り返らなくても誰だかわかってしまう。
今この瞬間、一番会いたくない人だった。
死んで水に膨れた無残な姿をさらしても、このみじめな自分を知られたくない人。
このまま彼女の顔を見ない方法は、このまま泉に飛び込むしかなかった。
だがその前に、女の顔を目に焼き付けてからでもいいかと思う。
女たらしの自分の名前にふさわしいではないか。
ウォラスは皮肉な笑みを浮かべる。
飛び込むかわりに泥の中に尻を突き、泉を背にして彼女と向き合った。
その動作だけでもきりきりと肺が痛んだ。
その人の、いつみても完璧な巻いた黒髪が、だれかと喧嘩してぴっぱられたかのように乱れていた。
片手にはヒールの靴、片手は長いスカートがたくし上げられて、裸の足指が地面を踏む。
その足は既に土に汚れている。足だけでなく、いつも完璧なドレスはよく見れば汚れ、裂けていた。
ここへ、足場の悪い森の中をヒールで走って、転んで、靴を脱いで、また走ってきたのだとウォラスにはわかってしまう。髪を飾るのは羽飾りではなく朽ちた枝である。
いつまでも戻らないウォラスを探しに来たのは、たまゆらにでも抱いた女の一人ではなかった。
その女は、一度もウォラスが愛を囁いたことがない人。
遠巻きに見て眺めるだけであった高嶺の花。
目にする度に美しさを増している、エールの美人のお姫さま。
ウォラスのいる泥濘へ、ためらいもなく足を踏み入れてくる。
その姿をみると、ウォラスはこの後におよんで焦ってしまう。
「こんなところに来たら汚れてしまう。足が傷ついてしまうだろ」
「馬鹿ね、ウォラス。わたしはもう泥だらけなのよ。このぐらい大したことはないわ」
ジュリアはその決意を示すように、手に持った靴とドレスを足元の泥濘に落とした。
美しい顔は怒りに歪んでいる。
「どうしてこんな馬鹿なことをしたの?他人の名前を語ってアデールの王子を呼びだして」
「……退屈だったから?」
「退屈だからってするべきことではないわ。わたしにちゃんと説明して」
ウォラスは肩をすくめる。
「いい気になっているヤツを落としてやりたかった。彼はまっすぐで自分と違いすぎていたから。初心すぎてみていられなかったから。彼が周囲に変化を与えて変わっていくのを見せつけられてばかりいたから」
「……どこまで落とすつもりだったの」
ジュリアは近づいてくる。
一足ごとに泥水は彼女を汚していく。
「彼が、恥辱にまみれてスクールから去るところまで。男が男に凌辱されても恥ずかしくても誰にもいえないだろ。ただし、怖気づいたのは俺だったんだけど」
「凌辱ですって?本気で言っているの?」
「本気だった。その結果がこのありさま」
ウォラスの目の前にジュリアは立った。
最後に目に焼き付けるように、ウォラスはジュリアを見上げた。
ジュリアの姿が夕闇にかすむ。
最後に焼き付ける顔が彼女の怒りの顔などこれ以上のぞむべくもない恩恵ではないか。
良く見ようとウォラスは瞬いた。
冷たいものが鼻筋に流れた。
自分が泣いているんだと悟ったときにはウォラスは口走っていた。
「あなたの得られない世界は味気過ぎて、退屈なんだ。これぐらい情けなく、波乱な人生は丁度よいだろ?」
「馬鹿ね、ウォラス。もう、わたしから逃げないで」
ジュリアの手がウォラスの頬に添えられる。
ウォラスの唇にジュリアの唇が重なる。
冷え切ったウォラスの唇に、ジュリアの唇は熱かった。
泣いているウォラス以上に、ジュリアの口内は涙と鼻水でしょっぱかった。
「馬鹿なあなたに罰を与えるわ。このままスクールに留まって、あなた自身がしでかしたことの結果を甘んじて受け入れなさい。恥辱にまみれるのはあなたよ。そして、このまま、どうか、わたしの前から消えてなくならないで頂戴」
彼女に恋しても空しくなるばかり。
退屈な振りをしていれば、己の心をごまかせた。
本当に欲しかったものは、たったひとり、黒髪の年下の、女王さまだったんだ。
彼女を手に入れられるのならば、どんなことでもできそうだった。
その決意が、ウォラスの今までの生き方と違いすぎて怖かった。
ウォラスはとうとう自分の心に向き合ったのだった。
第七話 完
鷺やカモたちが水辺に戻ってきていた。
セキレイがちょんちょんと走っては止まり、走っては止まりを繰り返し、踏み荒らされた泥濘の上にちいさな足跡を残して走り去っていく。
もうここにはウォラスしかいない。
ウォラスに手を貸すものは誰もいなかった。
一人残されて随分時間がたっていた。
誰も探しに来るものはいない。
この哀れな結末は、自分の悪ふざけが招いた自業自得であった。
ジルコンにもとうとう見捨てられたように思う。
あのように蔑まれ見下された目で見られたのは初めてだった。
今まではどんなに斜めな発言をしても面白がられ諭されたりはしても、友人だった。
だが、その友人関係も本当に終ってしまった。
最後の最後で、アデールの王子が女である秘密を知り、彼、いや彼女をいたぶるのをやめて、暴力の身代わりになった。ノル達がアデールの王子の秘密を知ったときよりも、よかったと思うのだが、そもそも彼らに暴挙をそそのかした自分がいうものでもないことだった。
このまま夏期スクールに残れば、参加者は己を卑怯もののようにこれからみるだろう。
この場にもいられなくなったら、一体自分はどうしたらいいのかわからない。
責任を持たなくてもいい気軽な身分の王子という身分は、残り猶予がたっぷりあるわけではない。
第5王子の自分は国にとっても無用の長物なのだ。
かといって、事業や外交にがむしゃらに精進するような熱心さもあるわけでもない。
愛してもない女の紐になるのも、常に感じている退屈な日常の延長にすぎないだろう。
愛でさえ、この外見の秀麗さと美辞麗句に惑わされた女たちとの、ただの行為に過ぎない上っ面だけのものに過ぎない。
価値のないものほど簡単に手に入り、そして、手にいれたときと同様に簡単に手放してしまえるものなのだ。
手放したくなくなるほど価値のあるものは、自分には何もない。
第五王子という身分でさえも、親が与えた高価な装飾品にすぎなかった。
重い身体を引きずり、血と泥で汚れた服をさらに泥だらけにしながら這い進む。
肋骨が折れている。息をするのが辛い。
自慢の顔や内臓が大丈夫かどうか心配するよりも、泉に体を沈めるのがよさそうだった。
自分の命にわずかな価値も見いだせない。
退屈すぎて死にそうなら、死んでしまうのがいいのではないか?
なぜそのことに気が付かなかったのか不思議なぐらいだった。
自分の手で、自分の終点をつけるのが最後の退屈な仕事だと思った。
「……こんなところにいたのね」
ウォラスはそのまま固まった。
誰かが自分を探しにくるとは思わなかった。
その声が普段の声よりも華やかさがなくて低くて震えていても、振り返らなくても誰だかわかってしまう。
今この瞬間、一番会いたくない人だった。
死んで水に膨れた無残な姿をさらしても、このみじめな自分を知られたくない人。
このまま彼女の顔を見ない方法は、このまま泉に飛び込むしかなかった。
だがその前に、女の顔を目に焼き付けてからでもいいかと思う。
女たらしの自分の名前にふさわしいではないか。
ウォラスは皮肉な笑みを浮かべる。
飛び込むかわりに泥の中に尻を突き、泉を背にして彼女と向き合った。
その動作だけでもきりきりと肺が痛んだ。
その人の、いつみても完璧な巻いた黒髪が、だれかと喧嘩してぴっぱられたかのように乱れていた。
片手にはヒールの靴、片手は長いスカートがたくし上げられて、裸の足指が地面を踏む。
その足は既に土に汚れている。足だけでなく、いつも完璧なドレスはよく見れば汚れ、裂けていた。
ここへ、足場の悪い森の中をヒールで走って、転んで、靴を脱いで、また走ってきたのだとウォラスにはわかってしまう。髪を飾るのは羽飾りではなく朽ちた枝である。
いつまでも戻らないウォラスを探しに来たのは、たまゆらにでも抱いた女の一人ではなかった。
その女は、一度もウォラスが愛を囁いたことがない人。
遠巻きに見て眺めるだけであった高嶺の花。
目にする度に美しさを増している、エールの美人のお姫さま。
ウォラスのいる泥濘へ、ためらいもなく足を踏み入れてくる。
その姿をみると、ウォラスはこの後におよんで焦ってしまう。
「こんなところに来たら汚れてしまう。足が傷ついてしまうだろ」
「馬鹿ね、ウォラス。わたしはもう泥だらけなのよ。このぐらい大したことはないわ」
ジュリアはその決意を示すように、手に持った靴とドレスを足元の泥濘に落とした。
美しい顔は怒りに歪んでいる。
「どうしてこんな馬鹿なことをしたの?他人の名前を語ってアデールの王子を呼びだして」
「……退屈だったから?」
「退屈だからってするべきことではないわ。わたしにちゃんと説明して」
ウォラスは肩をすくめる。
「いい気になっているヤツを落としてやりたかった。彼はまっすぐで自分と違いすぎていたから。初心すぎてみていられなかったから。彼が周囲に変化を与えて変わっていくのを見せつけられてばかりいたから」
「……どこまで落とすつもりだったの」
ジュリアは近づいてくる。
一足ごとに泥水は彼女を汚していく。
「彼が、恥辱にまみれてスクールから去るところまで。男が男に凌辱されても恥ずかしくても誰にもいえないだろ。ただし、怖気づいたのは俺だったんだけど」
「凌辱ですって?本気で言っているの?」
「本気だった。その結果がこのありさま」
ウォラスの目の前にジュリアは立った。
最後に目に焼き付けるように、ウォラスはジュリアを見上げた。
ジュリアの姿が夕闇にかすむ。
最後に焼き付ける顔が彼女の怒りの顔などこれ以上のぞむべくもない恩恵ではないか。
良く見ようとウォラスは瞬いた。
冷たいものが鼻筋に流れた。
自分が泣いているんだと悟ったときにはウォラスは口走っていた。
「あなたの得られない世界は味気過ぎて、退屈なんだ。これぐらい情けなく、波乱な人生は丁度よいだろ?」
「馬鹿ね、ウォラス。もう、わたしから逃げないで」
ジュリアの手がウォラスの頬に添えられる。
ウォラスの唇にジュリアの唇が重なる。
冷え切ったウォラスの唇に、ジュリアの唇は熱かった。
泣いているウォラス以上に、ジュリアの口内は涙と鼻水でしょっぱかった。
「馬鹿なあなたに罰を与えるわ。このままスクールに留まって、あなた自身がしでかしたことの結果を甘んじて受け入れなさい。恥辱にまみれるのはあなたよ。そして、このまま、どうか、わたしの前から消えてなくならないで頂戴」
彼女に恋しても空しくなるばかり。
退屈な振りをしていれば、己の心をごまかせた。
本当に欲しかったものは、たったひとり、黒髪の年下の、女王さまだったんだ。
彼女を手に入れられるのならば、どんなことでもできそうだった。
その決意が、ウォラスの今までの生き方と違いすぎて怖かった。
ウォラスはとうとう自分の心に向き合ったのだった。
第七話 完