男装の姫君は王子を惑わす~麗しきアデールの双子

76、開かない扉 ②

 今夜のアデールの王子の食事はレオが運ぶ予定である。
 そのレオにジルコンが声をかけた。
「俺に選ばせてくれ。今夜は俺が運ぶ」
 ジルコンは口数が少なくなっている。
 ずっとアデールの王子が部屋を出てこないことを気にしているのは誰の目にも明らかだった。
 レオは眼鏡を引き上げた。
「あんたのその態度があんたの取り巻きたちを変に刺激したんだろ?ノル達に謝罪文を書かせたのなら、あんたの反省はアンをそっとしておくことだと思うんだけど。あんたは自分がどうしたいのか、はっきりさせほうがいいんじゃないの」
 ジルコンはレオのお盆から手をのろのろと引く。
「……その通りだ」
 力ない言葉だった。
 去っていくジルコンの背中を見るレオの肘に、励ますようにレベッカは手を触れる。
「レオは正しいと思う。全部の責任はアンを中途半端に可愛がり、そして獣の群れに放置したジルコン王子にあるわ!」

 その言葉はジルコンにも届く。
 運ぶのをあきらめる。
 その代わり、その夜、廊下の外で腕を組んで背中を壁に預け、目を閉じ瞑想する。
 かたり、ことり。
 扉が開く気配。
 はっと顔を向ける。
 わずかな隙間から食器が外に出されているところだった。
 白い手が見えたような気がする。
 ジルコンはかがんでお盆を床から拾い上げた。
 部屋に閉じこもってはいるが、生きていて、食欲も旺盛であることに心より安堵する。
 手書きのメモがお盆に置かれていた。

 本当に、僕が不甲斐ないせいで迷惑をかけてごめんなさい。
 レオ、今日も運んでくれてありがとう。

 ジルコンはそっと、胸ポケットに潜ませたのだった。

※※※

 その夜の日付が変わり、虫の声も途切れる頃。
 ロゼリアは部屋の扉から外の様子をうかがった。
 誰もいない。今なら繭から出られそうだった。
 差し入れのタライを使って顔や体を拭いてはいたが、それも限界である。
 髪に手を差し入れてもねっとりと油のべたつきがあった。
 頭も体も限界がきていた。
 手燭ひとつもち、裸足ですべりでた廊下は暗い。
 足音を忍ばせ扉を越える度に、内側から人の寝入る気配があった。
 ロゼリアをみても、アデールの王子であるとは誰もわからないかもしれない。
 ロゼリアも誰にも見られるつもりはない。
 さっと行って、目的を果たして、誰にも気が付かれないようにして、また戻るつもりだった。

 目指す先は共同風呂。
 廊下の突き当たりのジルコンの部屋の前を通り過ぎて、その先の共同風呂に入った。
 その湯は、エールの共同風呂の多くが天然の温泉を利用しているように、天然のお湯をはる。
 加温が不要なために24時間利用できるが、誰も利用しない時間帯は熱くなっている。
 服を脱ぎ捨て、みつあみもせずひとつに結んだだけの髪を解いた。

 湯を足にかけた。
 身体に震えが走るほど気持ちがいい。
 少し熱いがこのまま水を足さず入ることにした。

 そのまま何杯か頭から湯を被った。
 石鹸を泡立て髪を丁寧にあらう。べたつく頭皮を指の腹で何度も何度もこすりつけた。
 洗いあげた髪はくるくるねじって頭の上でだんごにする。
 次は身体だった。腕や背中だけでなくて、顔もタオルで強めにごしごしこすった。
 あかをこそぎ落し、古い自分を脱ぎ捨てる。
 完全に脱皮する感覚が欲しくて、足の指の爪の間から耳の奥までロゼリアは洗った。
 湯殿だけだった蒸気はロゼリアが湯を使うことで、次第に風呂場全体にひろがっていく。
 頭まで湯につかった。
 六日ぶりのお風呂に、身体が求めるまま、頭のてっぺんまで湯につかった。
 出るとなったら手早く体を拭き、前を合わせる夜着をきる。
 この時間にうろつているものは、誰もいないはずだった。
 風呂の扉をそろりと開き、念のために外の様子をうかがう。
 真暗な廊下で誰もいないことを確認し廊下に出た。
 だが数歩もいかないうちに、前方から声がかかる。

「……そろそろ風呂に入りたくなるころかなと思っていたよ。エールで再会した時も銭湯に行っていただろ」

 ロゼリアは飛び上がるほど驚いた。
 廊下の壁の闇が、人の形をとり始めた。
 スラリと長身のラシャール。
 いつから彼はそこにいたのだろう。
 今の自分は無防備すぎる。
 胸を押さえる晒もなく、髪もゆったり一つにまとめただけ。
 ロゼリアは走って逃げようとした。
 安全な、繭の中へ。
 だが、草原の男の瞬発力は人並ではない。
 追いつかれ手首を掴まれ、引き寄せられ、体ごと後ろから抱きしめられた。
 手燭は手から転げ落ちた。

「逃げると捕まえたくなる。わたしに何もいうことはないのか?」
「ラ、ラシャール、あの時、助けに来てくれてありがとう」

 舌がもつれ、声はかすれる。
 後ろから抱きしめるラシャールの腕が、胸に強くおしつけられていた。

「ああ、あの時。ジルコンにどさくさ紛れに殴られた。殴ってやったが」
「あんたたちはやり過ぎだ」
「あなたの男姿は男たちを惑わせるからだ!あんな風に捕らえられて、あのまま、どうなっていたかわらなかったんだぞ。俺が後にも先にもブチ切れたのはあれが初めてだ」
「……ラシャールはジルコンと同じようなことを言うんだね」

 ラシャールは捕らえたロゼリアを抱き締め、顔をロゼリアの濡れた髪に押し付ける。
 とても逃げられそうになかった。

「わたしが呼びだした手紙だったから森の泉へ行ったのだろ。このことはわたしにも責任があるといえる。あなたの秘密をあいまいなままにしておいたから。女装趣味だというあなたの言葉を信じたふりをしたのだから。男装が皆に知るところになり、考えられる限りの最悪の状況がおきても、わたしはあなたをこの腕にさらって助けるつもりがある。それをわかっていてほしい。わたしは何があってもあなたの味方でありたい」

「ラシャール、ありがとう。でも、わたしは自分で何とかする。自分のまいた種だから、その結果がどんなものでも幕を引くのは自分でしたい」
「だけど……」
「あなたは、草原と岩場の国々のために最大にライバルとでもいうべきエールの国に来たのでしょう。あなたはあなたの本分を全うしなくてはならないわ。わたしのために、それを台無しにしないで」

 ロゼリアはラシャールの腕に手を置いた。
 力をいれなくてもロゼリアの身体は、強靭な、だが同時に甘やかな桎梏からすり抜けた。

「あなたの手助けはいらないわ。見ていて、ラシャール。あなたの知るアデールの王子はもうすぐいなくなる。繭は内側から破らないといけないの」

 ロゼリアは再び自室の扉の内側へ姿を消したのだった。



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