男装の姫君は王子を惑わす~麗しきアデールの双子
113、眠れぬ夜
いつもなら、ララのマッサージのあとは眠りの沼に沈み込むようにして眠れていたのに、今夜に限って眠れない。
ロゼリアは牧場で眠る羊を100匹まで数えて、眠ることをあきらめた。
寝室に熱気がこもってる感じがして、ベッドから抜け出し、寝室の扉を開け放し、灯りもともさずにバルコニーの窓を開ける。
森の匂いを孕んだ小さなつむじ風が、耳元をうなりながらかすめて部屋に流れ込んだ。
カーテンが大きく膨らみ音をたててはためいた。
夜風の気持ちよさにロゼリアは裸足のままベランダに出た。
タイルの床がひんやりと冷たくて気持ちがいい。
街の灯りもぽつぽつと数えるほどしか灯されていない。
彼らも灯りの下で眠れていないのだろうかと思う。
きっとあの灯りの数以上の多くの者たちが、さまざまな事情の元に家族の寝静まる部屋で眠れない夜を過ごしているのかもしれないと、とりとめのないことを考える。
夜空には星が輝き、大きな月の冷やかな熱を頬に受けた。
アンジュは元気にしているだろうか。
アンジュとサララは仲良くしているだろうか。
アンジュは奥手そうだけど、婚約者であるサララにはキスしていたるところを触れ合って、そういうこともしているのだろうか。
ウォラスの言うように、王族の男子は遊んでいるものも多いと言っていたので、アンジュはロゼリアやサララの知らないところで遊んでたりするのだろうか。
ロゼリアは想像しようとして全くできないことに気が付いた。
アンジュがサララとキスしていることも想像できなければ、他の女子とキスしているところも想像できない。
思い浮かべるアンジュの顔は自分の顔でもあるので、自分が女子とキスすることはないからか。
自分とジルコンはどこから間違ってしまったのだろう。
エールの森でジルコンを迎えに行って、血に濡れた彼と再会してしまった時だろうか。
広い世界を見ろと差し伸ばされたその手を、取ったときだろうか。
それとも、行くのを渋ったアンジュの代わりに自分が行くと決意した時だろうか。
結局は全て自分が選択してきた積み重ねが、今ここの不安定で不確定な状態にある。
ロゼリアは手を月に伸ばした。
手の平にすっぽりと収まっているのに、握っても月は遠い。
掴めるようで掴めない。
婚約者でありながら婚約者ではないという、婚約無期限延期の自分のようだと思う。
しばらくバルコニーの桟に腕を乗せ、夜風を浴びる。
次第に淡い月光に慣れてきて、真暗だった世界に、庭の噴水や図書館の影がおぼろげに見えてきた。
ふと、気配を感じてロゼリアは視線を左下へ向けた。
二階の左側のバルコニーはラシャールの特別室のバルコニーである。
誰もいないと思ったバルコニーには、人影があった。
背中を桟にもたせ掛け、上を見上げている。ロゼリアの方を。
まさか人がいるとは思わず、ロゼリアは体を後ろに引く。
だが、もうラシャールは気が付いている。
おそるおそる体をもとに戻すと、先ほどと全く変わらない姿勢でいた。
「ラシャールも眠れないの?」
こんな小さな声がラシャールに届くとも思わなかった。
ラシャールの影の頭が頷き、その手が呪文でも唱えるかのように動く。
「?」
意味が分からない。
「チッ」
舌打ちした気配。
ラシャールの影は左右を確認し、桟に手をかけるといったん沈み込み、反動をつけて足を掛け飛び上がった。
その手はロゼリアの足元の桟を掴む。再び体を前後に大きくゆすって足を掛けて立ち上がると、ぐるりと両足をまわしてロゼリアの側に降り立った。
ロゼリアは突然現れた闖入者に目を丸くする。
草原の男の身体能力が優れていることは知っているが、まさか二階から三階へ危険をものともせずに軽々とあがれるとは全く想像したこともなかった。
同時に、普段はその身体能力を加減して見せているような気がした。
「驚かせた。あなたが話しかけてくれたのに、わたしの声は届かないし、言葉も読み取ってもらえないから」
「まさか、聞こえたの?」
「もちろん。パジャンの民は総じて五感が優れている。運動神経の怪しいレオだってそうだろう?風の中に含まれる様々な情報を嗅ぎ、聞き、見えなければ苛酷な草原で我々は生きていくことができなかったから。今はそこまで苛酷ではないけれど、祖先が生き残るために鍛練した能力はパジャンに行きる者たちに確実に引き継がれている。夜目も効く」
「……読み取るというのは?」
ラシャールは笑う。
ロゼリアが再び肘を桟に置いたので、ラシャールもその隣に肘をかける。
夜中に訪問するにしては、距離を置いてくれている。
ラシャールは手を躍らせた。
左右の動きが違う。
指を立てたり、握ったり。
「獲物に気が付かれそうになるのを防ぐために、言葉以外の手のひらのサインの手話をわれわれは持っている。あっちにいこうと指を指したりするだろ。それを発展させたものと思ったらいい。パジャン語を話せるのに手話を知らないというのは驚きだ」
「耳が聞こえない人も手話を使って話をしているわ。それをみんなができるの?」
「パジャンのもうひとつの共通言語だと思っていい。言葉を学ぶように、手話を学ぶ」
「本当に、知らないことばかりだわ」
「そうか?文字だって、文化圏ごとに違う。失われた文明の中には文字ではなく、縄紐を結んで記録をしていた文明もあるという」
「紐の結び目が文字?ぽつんぽつんと現れた結び目を読み解くのは難しそうだわ」
「だから庶民には伝わらなかったし、紐の文字を結ぶ者読み解く者は特別の訓練を受けたごく一部の記録者だったという」
ラシャールは、古い遺跡で発掘された石板に刻まれた絵のような文字や、古い石室の壁に金で象嵌された、今と違う星霜図が発見されたことを語る。その時代を生きていた者たちが見た夜空には、別の星座が見えていたのだ。
月明かりの元で、ラシャールは目を輝かせているようだった。
「……世界は横だけに広いのではなくて、奥にも深かったのね」
ロゼリアは牧場で眠る羊を100匹まで数えて、眠ることをあきらめた。
寝室に熱気がこもってる感じがして、ベッドから抜け出し、寝室の扉を開け放し、灯りもともさずにバルコニーの窓を開ける。
森の匂いを孕んだ小さなつむじ風が、耳元をうなりながらかすめて部屋に流れ込んだ。
カーテンが大きく膨らみ音をたててはためいた。
夜風の気持ちよさにロゼリアは裸足のままベランダに出た。
タイルの床がひんやりと冷たくて気持ちがいい。
街の灯りもぽつぽつと数えるほどしか灯されていない。
彼らも灯りの下で眠れていないのだろうかと思う。
きっとあの灯りの数以上の多くの者たちが、さまざまな事情の元に家族の寝静まる部屋で眠れない夜を過ごしているのかもしれないと、とりとめのないことを考える。
夜空には星が輝き、大きな月の冷やかな熱を頬に受けた。
アンジュは元気にしているだろうか。
アンジュとサララは仲良くしているだろうか。
アンジュは奥手そうだけど、婚約者であるサララにはキスしていたるところを触れ合って、そういうこともしているのだろうか。
ウォラスの言うように、王族の男子は遊んでいるものも多いと言っていたので、アンジュはロゼリアやサララの知らないところで遊んでたりするのだろうか。
ロゼリアは想像しようとして全くできないことに気が付いた。
アンジュがサララとキスしていることも想像できなければ、他の女子とキスしているところも想像できない。
思い浮かべるアンジュの顔は自分の顔でもあるので、自分が女子とキスすることはないからか。
自分とジルコンはどこから間違ってしまったのだろう。
エールの森でジルコンを迎えに行って、血に濡れた彼と再会してしまった時だろうか。
広い世界を見ろと差し伸ばされたその手を、取ったときだろうか。
それとも、行くのを渋ったアンジュの代わりに自分が行くと決意した時だろうか。
結局は全て自分が選択してきた積み重ねが、今ここの不安定で不確定な状態にある。
ロゼリアは手を月に伸ばした。
手の平にすっぽりと収まっているのに、握っても月は遠い。
掴めるようで掴めない。
婚約者でありながら婚約者ではないという、婚約無期限延期の自分のようだと思う。
しばらくバルコニーの桟に腕を乗せ、夜風を浴びる。
次第に淡い月光に慣れてきて、真暗だった世界に、庭の噴水や図書館の影がおぼろげに見えてきた。
ふと、気配を感じてロゼリアは視線を左下へ向けた。
二階の左側のバルコニーはラシャールの特別室のバルコニーである。
誰もいないと思ったバルコニーには、人影があった。
背中を桟にもたせ掛け、上を見上げている。ロゼリアの方を。
まさか人がいるとは思わず、ロゼリアは体を後ろに引く。
だが、もうラシャールは気が付いている。
おそるおそる体をもとに戻すと、先ほどと全く変わらない姿勢でいた。
「ラシャールも眠れないの?」
こんな小さな声がラシャールに届くとも思わなかった。
ラシャールの影の頭が頷き、その手が呪文でも唱えるかのように動く。
「?」
意味が分からない。
「チッ」
舌打ちした気配。
ラシャールの影は左右を確認し、桟に手をかけるといったん沈み込み、反動をつけて足を掛け飛び上がった。
その手はロゼリアの足元の桟を掴む。再び体を前後に大きくゆすって足を掛けて立ち上がると、ぐるりと両足をまわしてロゼリアの側に降り立った。
ロゼリアは突然現れた闖入者に目を丸くする。
草原の男の身体能力が優れていることは知っているが、まさか二階から三階へ危険をものともせずに軽々とあがれるとは全く想像したこともなかった。
同時に、普段はその身体能力を加減して見せているような気がした。
「驚かせた。あなたが話しかけてくれたのに、わたしの声は届かないし、言葉も読み取ってもらえないから」
「まさか、聞こえたの?」
「もちろん。パジャンの民は総じて五感が優れている。運動神経の怪しいレオだってそうだろう?風の中に含まれる様々な情報を嗅ぎ、聞き、見えなければ苛酷な草原で我々は生きていくことができなかったから。今はそこまで苛酷ではないけれど、祖先が生き残るために鍛練した能力はパジャンに行きる者たちに確実に引き継がれている。夜目も効く」
「……読み取るというのは?」
ラシャールは笑う。
ロゼリアが再び肘を桟に置いたので、ラシャールもその隣に肘をかける。
夜中に訪問するにしては、距離を置いてくれている。
ラシャールは手を躍らせた。
左右の動きが違う。
指を立てたり、握ったり。
「獲物に気が付かれそうになるのを防ぐために、言葉以外の手のひらのサインの手話をわれわれは持っている。あっちにいこうと指を指したりするだろ。それを発展させたものと思ったらいい。パジャン語を話せるのに手話を知らないというのは驚きだ」
「耳が聞こえない人も手話を使って話をしているわ。それをみんなができるの?」
「パジャンのもうひとつの共通言語だと思っていい。言葉を学ぶように、手話を学ぶ」
「本当に、知らないことばかりだわ」
「そうか?文字だって、文化圏ごとに違う。失われた文明の中には文字ではなく、縄紐を結んで記録をしていた文明もあるという」
「紐の結び目が文字?ぽつんぽつんと現れた結び目を読み解くのは難しそうだわ」
「だから庶民には伝わらなかったし、紐の文字を結ぶ者読み解く者は特別の訓練を受けたごく一部の記録者だったという」
ラシャールは、古い遺跡で発掘された石板に刻まれた絵のような文字や、古い石室の壁に金で象嵌された、今と違う星霜図が発見されたことを語る。その時代を生きていた者たちが見た夜空には、別の星座が見えていたのだ。
月明かりの元で、ラシャールは目を輝かせているようだった。
「……世界は横だけに広いのではなくて、奥にも深かったのね」