男装の姫君は王子を惑わす~麗しきアデールの双子

117、蓼藍

 頬から首に耳に、濡れた髪に指を入れ、後ろに流す。
 その髪は耳の下で、肩につくかつかないかぐらいで断ち切られていた。
 ジルコンは、アデールの王子の光を凝縮して滝のように波打つ美しい髪が好きだった。
 目の前の同じ顔の娘の姿を見ると、双子の王子こそ、短い髪がとても似合っていたと思う。

 キスをねだる娘の唇は柔らかく甘い。ジルコンを受け入れている。
 首に背中にまわされた腕が、つつましやかに膨らんだ胸にジルコンを引き寄せる。
 アンジュに抱いた愛しいという気持ちは、ロゼリアと過ごすうちにジルコンが認めようと認めまいと、確実に引き継がれていた。
 惹かれる気持ちの背景にはどちらにも後ろ暗くなるような禁忌がある。
 愛すべきでないのに、愛してしまったところ。

 王子には男同士の壁がある。
 姫には、王子の面影を重ねてみてしまう。

 夢では王子を抱くつもりがいつの間にか姫を抱いていた。
 現実に、夢の中のように姫を抱けば、己の王子への気持ちが姫への想いと融合していくかもしれないという確信に似たものもあった。
 むしろ、その方がアンジュにとっても自分にとっても幸せなのではないか。
 アンジュはジルコンの愛から逃げ出した。
 受け入れられない愛を持ち続けても、ロゼリアまで不幸にさせるだけではないか。
むしろ、融合させるために、ロゼリアを抱く。そうすれば、アンジュへの愛を握りこんで開かない己の頑なな両のこぶしが緩み、ロゼリアの気持ちをまるごと受け入れられるのではないか。


「……ジルコン、重い。背中が痛い。息ができないわ」

 先ほどまでジルコンの首を引き寄せていた手が、今は胸に移動して押していた。ジルコンの力強く打ち始めた心臓の振動はその手に伝わっているだろう。
 生の腿裏に強く押し当てて、やわな感触にぞくぞくきていた己の足は、強く押し返され拒絶されていた。
 今まで、腕の中にいてその全てがジルコンに投げ出されていたはずの娘の身体が、ジルコンを最後の一線で押しとどめていた。
 訳がわからなくて、ジルコンは混乱する。
 ほんの少し前までその顔はあまく蕩けてていた。その身体も、キスよりも先へ進むことも準備はできていそうだった。
 岩場に背中が当たっていたいのであれば、己の膝の上にのせて抱くこともできる。
 ……はずだった。


「……ああ。陸路もそんなに時間がかからずに、じきに誰かが来るだろうから」
 負け惜しみのように聞こえてしまう。
焦らされたと苦々しく思ったが、そんなことをできるような経験はないはずだった。抱かせる代わりに婚約破棄宣言を取り消させる約束をさせるつもりなのかとよぎる。
そんなこと軽々しく口にはできない。抱いて、やはりアンジュじゃないとダメだとなれば、それこそ三者三様に不幸になるではないか。

 ジルコンの身体の檻から、娘の身体がすり抜けた。
 顔を赤くして嬉しそうに唇をもごもごしているところを見ると、キスに満足したようだった。

 キスだけに。


彼女は男の生理がわかっていないのだ。
 婚約無期限延長という中途半端な状態の今、衝動に任せて抱いてしまわなかったことを喜ぶべきなのか。
 ジルコンに、アンジュだけを愛する猶予を与えられたというべきか。
心のどこかは確実に安堵している。

 ジルコンは、ロゼリアがいなくなった岩の壁に、代わりに腰を落として背中をもたせかけた。
 岸辺を辿ってみると、ちかちかと合図を送りながらこちらに向かう集団がある。
 いや、あれは合図でもない。何かの反射がたまたまこちらに跳ね返ってきただけだ。

 アデールの姫は、きれいな足を悪びれることもなくさらしながらぐるりと岩をまわり、向こう側の滝を見にいこうとしていた。逆光で体のラインがくっきりと浮かび上がって、裸同然ということも気にもしていない。その身体に欲情する男がいるなんて思いもしないのか。
 アデールの姫は田舎育ちの子供なのだ。
 ウォラスのような宮廷の恋の駆け引きも遊びも無縁で、周囲の大人たちに守られて大事に育てられたのだろう。
 恋の駆け引きもなにも、婚前に性交渉することなど思いもしないのかもしれない。キスで精いっぱいなのか。

「うわっ。これはすごい」
 岩の向こうで瀑声に負けないぐらい大きな声。
 姫の驚く声は、時折見せる艶めく美しさとかけ離れた声を出すことに、ジルコンは気が付いている。
「ジルコン、こんなにすごいの初めてみた」

 その何がすごいのか言わない言い方は、自分のところへ来て欲しいということなのだ。
 ジルコンはようやく落ち着いた体を起こした。
 姫がたどったように岩場をまわる。
 途端に、瀑声は大きくなり、細かな飛沫で白く煙る滝が現れる。滝の周囲は緑の雑草が生い茂っていた。
 ロゼリアはその雑草の中に、飛沫が掛かるのも構わずにしゃがみ込んでいた。
 ジルコンに引き抜いた雑草を誇らしげに掲げて見せた。根っこから土がぽろぽろと落ちた。

「ここは、野生の蓼藍の群生地よ。素晴らしいわ!これを持って帰ってもいいかしら」
「蓼藍?」
「エールの青の染料になるの」
 雑草の葉を指でこすってみせた。指についた緑の汁は青い色味に変化していく。
「藍は空気に触れて緑から青に変化するの。ジルコンの黒も、藍を何回も何回も重ねて深い色にしたもの。元はこの藍の青よ。アデールが赤なら、エールは青の文化なのね。それも贅沢に使った」
「アデールの赤もこういう植物なのか?それとも茜の根のような、何かの根っこなのか?」
「アデールの赤っていうのは普通の染料と違って……」
 アデールの姫は、蓼藍を見つけた興奮でアデールの秘密を口にしかけて、寸でのところ気が付いた。
「秘密をばらしてしまうところだったわ。アンに怒られてしまう」
「アンが怒る?」
「そう。アンはアデールの赤を、国の貿易の筆頭品目に上げるつもりで量産化を図っているから」

 姫の口からアンジュの名前がでると、二人は別人なのだと思い知る。そしてわずかに胸が痛んだ。アデールの王子の口から1度もアデールの赤の秘密も量産化を考えていることを聞いたことがなかったからだ。

 
 護衛責任者のスアレスと、その日のイベントに狩りだされていた黒騎士の数人が滝に駆け付けたとき、ジルコンとロゼリアはふたりとも半裸な状態で蓼藍の群生地にしゃがみこみ、むんずと掴んで引き抜いていたのだった。

駆けつけた中にラシャールとロゼリアの友人のレベッカもいた。レベッカは大きなタオルとロゼリアのサンダルを抱えてきていて、女子がいることにジルコンはほっとする。ロゼリアの裸も同前の姿を他の男の目にさらすのは絶対に許せなかった。

ラシャールはロゼリアの元気な姿を確認する。いつもは涼やかな目を、あの泉のほとりでの暴行事件でやりあったときと同じ、殺気に満ちた目をして、ジルコンを睨み付けたのだった。



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