男装の姫君は王子を惑わす~麗しきアデールの双子
 だが、自分を前にしてサーシャのことを話しているのではない。
 なぜか婚約破棄したはずのアデールの姫の話ばかりだった。

 ジルコンはジャケットのハンカチーフを気にして手に取り、また藍の話をし始めようとする。
 サーシャは耐えきれず遮った。
 食事が残るテーブルを周りジルコンの横に座る。
 テーブルの上のジルコンの手に手を重ねた。
 真っ赤に装飾した爪は、男の目を釘付けにすることを知っている。

「今夜はそういうつもりではなくて……」

 手を抜き身を引こうしながらもジルコンの視線はサーシャの襟足をさまよった。
 葛藤しつつ、その目の色に夜闇のような黒味が加わっていくのをサーシャは見逃さない。
 ジルコンの視線の意味がわからないサーシャではない。
 男が欲情したとき、タイミングよく促せば、愛妻家でも容易くサーシャの胸に顔をうずめてきた。
 さらに今夜は、ジルコンは、強い酒を普段以上に口にしている。

 二人がうまくいかなくなったのは、二人とも忙しくなり会う時間が取れなくなったのが原因だった。
 別れはサーシャから切り出した。
 いつまでも待つ女はサーシャのプライドが許さない。
 花の命は短い。芽が出ず、誰にも認められず、タイミングを逃し路地で客を取ることになった哀れな女たちを知っている。
 己の美貌を一瞬たりとも無駄にしたくはなかったのだ。
 別れたとはいえ、己を見出したジルコンが、己の野心的なところとこの美しい外見に惹かれていることを知っている。
 根本的な好みはそう変わらないというではないか。

「彼女と先へ進みたいのか、進みたくないのか、自分の気持ちがわからないんだ。どちらも大事にしたいと思っているのに。あなたは、短い髪が、そのうなじが彼女に似ている。白くて長い。どこか痛々しいのに、眼が離せない……」
「わたしならば、あなたを迷わせることはしない。あなたを愛してあげられるわ」

 サーシャはジルコンの手を取り頬に押し付けた。
 手入れの行き届いた自慢の肌だ。
 その手はためらいながら頬から頭に回り、短い髪の毛を掴んで流す。
 濃紺の眼は、サーシャをぞくぞくさせた。
 ジルコンがどちらも大事にしたいというのは、婚約破棄したはずのアデールの姫と自分のことではないか。
 結婚にためらいがあるから進めないでいる。
 その原因が自分にあるのではないか。

 サーシャは真っ赤な唇を押し付けた。
 ためらいながらもジルコンはキスを返す。
 短い髪を鷲掴みにされ、のけぞり大きく開いた首筋に、唇が這わされた。
 舌は熱く、サーシャは官能の予感に体の芯が震えた。
 奥の部屋はベッドがある。
 あらかじめそういうことも想定された部屋だった。
 抱きあげられたかと思うと、サーシャはベッドに落とされた。
 月明かりがベッドに差し込む。
 青みを帯びた光が、既にジャケットもシャツも脱ぎ捨てた男を照らす。

 サーシャは己の野心が満たされる時が来るかもしれないことを知る。
 ジルコン王子はあの頃よりも、誰もが認めるいい男になっていた。

 鎮魂祭での治安維持の徹底は、眼を瞠るものがあった。
 あれから警察兵の規律が見直され、警察組織の不正が取り締まられるようになった。
 浮浪児は保護され、無法地帯だった繁華街の裏路地地区は治安が随分とよくなっていた。彼はいずれエールの王としても、うまくやっていけるだろう。
 森と平野の国々の宗主国の王として、黄金時代を築いたと歴史に名前を残すかもしれない。
 そしてその横にいる花嫁は?王妃は?

 ジルコンは、自分の元から飛び立ったと思ったが、一度離れてこそ本当の価値が見えてくるものだというではないか。
 サーシャを愛していることを、若き王子は気が付いたのだ。
 サーシャは自分の将来にとって役にたつだろうとリスト化した男の名前を頭のなかで一つずつ永遠に消していく。
 ジルコンの愛に比べれば、クズのようなごみのような、欲望にまみれた男たちだった。

 ジルコンさえ己を愛するならば、第二妃でも妾でもいいかもと思う。
 王子妃を夢見たことがなかったとは言えないが、現実のものとするには、平民出のサーシャには夢物語だと思っていたことだった。
 サーシャの人生を劇にすれば、王子に見いだされ王妃となるまでを描いた壮大なラブロマンスになるだろう。
 生き馬の目をぬくような競争社会の、大衆演劇からは身を引かせてもらおう。
 道楽としての演劇は、好きで続けさせてもらう。
 収益も度外しして、己の楽しみだけに劇を行う。
 ジルコンが喜んでくれればいい。
 ジルコンが自分を見出し、引き上げ、そして人気の絶頂で己を手に入れる。
 自信にあふれ誰もが認める美しさを備えた自分こそ、愛される王子妃としてふさわしい。
 そういう運命だったのだとサーシャは思った。 


 男の身体がサーシャにのしかかる。
 首筋にキス。胸が強く揉みしだかれた。
 喘ぎが漏れる。
 サーシャもジルコンの身体を探った。
 興奮し汗ばんだ身体。黒金の服を着ている時にはわからないが、ジルコンの身体は以前にも増して、鍛練に鍛練を重ねた体であった。
 日に焼け水ぶくれができ、肩から腕にかけて皮がむけている。以前感じなかった男の匂いがする逞しい身体。
 泉でアデールの姫が対岸まで泳いだといったが、ジルコンも泳いだのか。
 ジルコンの雄に触れ、撫でさするとみるみる固く膨張する。
 サーシャはぴたりと己の合うところに導いた。
 容赦なく突き入れられる。
 こんなに激しく愛されたことはなかった。

 どんなに捨て置かれていても、ジルコンは自分のことを愛している。
 ああ、ジルコンは自分のものだ、と深く飲み込みゆさぶられながらサーシャは思う。
 美しく才能豊かに生まれついた自分には、望んで得られないものは何もなかった。
 誰もがうらやむ身分でさえも手に入れられる。

 ジルコンは月明かりのなか、その顔をサーシャの首筋に寄せ、熱病人がうわごとをつぶやくように、愛しい名前を何度も何度も口にする。

 サーシャも王子の名前を叫ぶ。
 強く引き寄せ、しっかりと美しい脚をその引き締まった腰に、緊張で固く締まった尻に絡めた。

 愛を求めるだけ得られた美しい女優は、抱かれながら声をあげずに泣く。
 王子が憑かれたように呼び続ける名前は己の名前ではない。
 己を抱くのは愛ではなく、満たされない欲望のために過ぎない。
 短い髪に、愛しい姿を重ねている。
 王子がいまここで抱いているのは自分ではない。
 王子はロゼリアと囁き続けた。

 己の才能を見出したジルコンを、サーシャだって愛した。
 彼が優れた女優になれると信じてくれたから、ここまで昇ってきた。
 ジルコンはもう迷うことはないだろう。
 サーシャは、人生の絶頂を味わったとたんに突き落とされた。
 ジルコンとの本当の別れが来たことを知ったのである。


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