お仕えしてもいいですか?
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夜の帳がすっかり下りた、午後八時。
木綿子はトートバッグの持ち手を握りしめながら、街灯が照らす薄暗い夜道をひとりで歩いていた。
木綿子が残業を早々に切り上げて向かっているのは犬飼の住むマンションだ。犬飼は最寄りの駅からほど近い築五年の分譲マンションにひとりで暮らしている。
マンションに到着すると木綿子は犬飼からもらったカードキーでオートロックを解除し、エレベーターに乗り込んで七〇七号室の焦げ茶色のドアの前に立った。
カードキーをドアノブに刺す前に、ふうっと大きく深呼吸をする。
そして、ノブに手を掛けると意を決してドアを押し開けた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
ドアを開けた途端、犬飼が待ち構えていたように腰を深々と下りお辞儀をしてみせた。
犬飼は会社で着用していたグレーのスーツではなく、黒スーツと揃いのベストに着替えていた。床も壁紙も真っ白な空間の中に、黒いスーツが良く映える。
「ただいま」
木綿子はなるべく堂々と見えるように、背筋をシャンと伸ばしてトートバッグを犬飼に渡した。パンプスを脱ごうと玄関に置かれたスツールに腰掛けるとすかさず、犬飼が足を持ち上げる。ダークグレーのパンプスはセールで買った安物だが、犬飼に手ずから脱がせてもらうと、まるで高級ブランドの特注品のように感じられる。
犬飼は踵を揃えてパンプスを玄関のたたきに置き、木綿子に毛足の長いふかふかのスリッパを履かせた。スリッパを履かせてもらうと、木綿子は静かに立ち上がり廊下を歩き始めた。