透明な標本
涼香のベッドの飾り棚には、父からもらった小さな標本瓶が置かれてある。
 瓶はグリセリンに満たされていて、その中を青紫色に光る透明な金魚が、尾びれを翻した姿で浮かんでいる。灯りを消した暗い部屋でも、金魚は命を光らせている––––。涼香は時おり、光る骨だけになった金魚に呼び止められるように、眠れなくなる夜があった。
 うろこを剥ぎ取られ、内臓も取り除かれて、骨だけが露わになった姿がどうしてこんなに美しいのか、涼香にはふしぎだった。青色に光っているのが軟骨、紫色に光っているのが硬骨で、ほんのかすかな細かい骨の先まできれいに染め抜かれている。解剖による骨格標本の作製がむずかしい小型の魚類などに有効な技法なのだと、彼女は生物学者である父に教わった。
 ある日、涼香は父が勤める大学の研究室に連れられて、父の所用の合間にひとり待たされていた。まだ六つとならない子供には公園のように広い研究室で、彼女は父の言いつけを守っておとなしくしていたが、ふと、扉が半開きになっている隣部屋を見つけると、吸い込まれるようにして足を踏み入れた。そこは父が書斎として使っている個室であるらしかった。壁一面にびっしりと大小さまざまな標本瓶が並べられており、その中に、彼女は自分の透明な金魚と同じように光る骨を見つけた。カガミダイ、ナイフフィッシュ、イソバテング、アカメバル、ナミダホシエソ、ヒメイカ––––。瓶には魚類の名前が記されたラベルが貼り付けられていて、それらはほとんど知らない名前ばかりだったが、見つめていると尾ビレや背ビレがいまにも開いたり閉じたりしそうに、生きて泳ぎ回る姿が目に浮かぶのだった。名前も知らない、今は骨だけの姿になった魚たちでも、かえって生き生きしい命が見えてくるのはなぜなのかと、彼女にはやはりふしぎだった。
 見知らぬ魚たちの命に打たれながら、今度は恐竜のような姿をした骨が小瓶の中で光っていた。透明なハツカネズミの新生児だった。それからくちばしを天に向けて喘いだような姿のウズラ、脚が生えて手が生えて来ようとするカエルになりかけの姿のオタマジャクシなどが並んでいた。その姿に釘付けにされているうちに、この生き物たちは何のために世の中へ生まれ出て来たのかと、寂しい生き死にが思われてくるのだった。すると涼香は、この広い研究室にひとりきりでいることが途端に思い返されて、あたり一面、骨だらけの壁に取り囲まれている自分に気がついた。
「おとうさん、おとうさんどこにいるの? おとうさん。」
 涼香は父を探しに飛び出して行った。研究室の外の廊下は霧に包まれたようにつめたかった。振り返ると何かが追いかけてくるような気がしてならなくて、彼女はまっすぐに走ってゆくのだった。
「おとうさん、ごめんなさい。言いつけ守らないでごめんなさい。だまって部屋に入ってしまってごめんなさい。」
 抱きとめられた父の胸で涼香はしきりに泣いていた。父のふところからは薬品の匂いが漂っていた。父は彼女をもう一度研究室に連れ帰ると、何も言わずに透明な生き物たちの標本瓶を眺め回していた。
 涼香が透明な金魚をもらったのは、彼女が父と一緒に暮らすようになってすぐの頃だ。涼香は連れ子として、母とともに父の家へ迎えられたのだった。しかし、母は父の家へ来てまもなくガンで死んでしまった。
「おとうさんが好きになる人は、みんなすぐに死んでしまう。」
母の葬式の帰りに、父は独り言のようにそんなことを言った。涼香が父から透明な金魚をもらったのは、もしかすると母が死んだ後のことだったかもしれない。母はまだ若く、艶のある黒髪はいつまでも美しかった。
 父の家に来てから、涼香には兄と姉とが出来た。二つ年上の姉の部屋に二段ベッドが置かれて、涼香は下で寝かされていた。だが姉はたびたび涼香を上のベッドへ上がってくるように呼びつけて、足元で寝かせることがあった。
「涼香はちゃんとお家の順番を守らないとダメよ。一番はおとうさん、二番はおにいちゃん、三番はわたし。涼香は一番下の下だからね。」
 そうして姉は、涼香の頭を足で撫でてやるのだった。姉の冷たい足の指先が頬に触れて、涼香がうつむくたびに、姉はつま先で彼女の顎を持ち上げるのだ。涼香は両手で姉の足を大事そうに包んで、泣きながら口づけをするのだった。
「涼香。涼香ちゃん。言いつけを守って、ちゃんといい子にするのよ。」
 いつしか眠りに落ちた二人は、ほんとうの姉妹のように枕を並べて寝ていることもあった。
 涼香が十八になると、その輪郭や瞳の濃さはますます母に似てきた。その頃には兄と姉とはすでに家を出ており、彼女は父と二人暮らしとなっていた。二人で暮らすには十分な広さの住まいなのに、やがて父はこの家を新築のように改築をはじめた。
 だが涼香のベッドの飾り棚には、透明な金魚が置かれたままでいる。見ようによっては時が止まったように、いつまでも美しくあり続ける命の姿なのかと思われて来る。大学の勤めから帰って来る父を迎えて夕飯を食べさせ終わると、この頃の涼香は部屋に閉じこもりがちだった。
 父がまだ帰ってこない夕暮れ時に、時おり、兄が来ることもあった。
「こんな家には、もう居てくれなくていいんだよ。」
「どうして。」
「どうしてって、こんな家は涼香にとって窮屈だよ。ずっと前からそうじゃないか。」
「わたしのお家はここしかないもの。」
「そうやっていつまでも親父と二人暮らしでいるつもりかい?」
 兄にそう言われて、涼香は立ち止まった。外から連れて来られた自分が、兄や姉の目にどう映っているのか––––。今までそんなことを思いもしなかった自分が、急にはずかしく思えて来た。
「……ほかに行くあてもないし、探しようもないけど、考えてみます。」
「なら、僕のところに来ればいい。」
 その言葉は思いがけなかった。兄の燃えるような瞳に、涼香はおどろいてうつむいてしまった。しかし彼女は、二十歳を過ぎてもまだ父と暮らしているのだった。 
 その冬は、庭に咲いた花に氷柱が垂れ下がるほど冷え込む日が続いた。病に倒れて入院していた父が、病室で突如おたけびをあげて死んだ。涼香は二十八になっていた。彼女はベッドにもぐりこんだまま泣き通しだった。飾り棚には透明な金魚が、やはり変わらぬ美しさで翻っていた。そうして夜も日も明けない時を過ごしていた彼女だったが、ある日どうしたものか、朝のニュースを耳にすると雪の中へ飛び出して行った。
 季節はずれのクラゲが大量に発生し増殖を続け、市中のあらゆる海水や河川の取水口をふさいでいるという。そのせいで海岸に立つ発電所はすべて停止したらしい。夜になって灯りが消えた街の空には、光を放つクラゲがおびただしく浮かんでいた。
 涼香のからだの上へも下へも、数え切れないほどのクラゲが通り過ぎて行った。そして兄、姉、父がすさまじい速さで流されて来ると、四方八方に伸びた光る触手の中へと吸い込まれてゆくのだった。
「おかあさん、おかあさんどこにいるの? おかあさん。」
 見渡すかぎり、飴細工のように輝くクラゲが満天なのだ。降りしきる白雪は輝きに染まって、万華鏡のように果てしなかった。

 その時、涼香はその光景が、あこがれのように切ない標本であるわけを、ふと諒解したのだった。
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