イチゴ 野イチゴ
第三章

  第三章

    1

ミイナは思っていた。
優馬くんが言った一言で、何かが変わろうとしていた。

あたしは何を見て来たんだっけ?何かが間違っている。あの時もあの時も。
本当の世界はどこにあるんだったっけ?

 ママに髪をとかしてもらっている時、鏡の横の引き出しにはピンクのリボンがしまってあった。
 部屋のドレッサーにはピンクのドレスはかかってなかった。ブルーのドレスだけだった。

 家族旅行の写真には誰が映っていたっけ?誕生日のテーブルの上にはお皿もナイフもフォークもそろえてあったけど。

 あたしが見て来たもの、それは鏡の向こうにあったミクの作った世界?それとも現実の世界?

小さい頃から鏡を覗き込むと同じ顔して微笑んだ、それは双子の妹のミクだった。
 あたしはミクに、ミクはあたしに話しかけた。あたしたちはお互いに答えては、笑いあったり泣いたり。心がくすぶってるときはいつでも味方になってくれた、妹。

 ずっと一緒に生きて来たと思っていた。
 だから、寂しくなんかなかったし一人きりで家にいても、何にも問題なんてなかったんだ。
 パパもママも忙しいんだ、それはあたしなんかの為だしわがまま言ったらママが困っちゃう。
 だから、いつでも笑って行ってらっしゃいを言ったし、抱きついてお帰りなさいを言った。

 それは、何でもない事で毎日自然に過ぎていく中の一コマに過ぎなかった。
 いつからだろう、ミクが自分がこうしたいって言い出したのは。
 それまで、ほほ笑んで笑ったり泣いたり同じように頷いていた双子の妹。
 ピンク色が好きだと言い、あたしにそれをねだる様になった。
 そんな簡単なお願いなんて、たやすい事だったからいつでもあたしは、ピンク以外の色を選んで身に着けたんだ。
 ピンクのリボン、ピンクの髪飾り、ピンクのシャツ、ピンクのワンピースにドレス。
 それはミイナの好きな色でもあったけど、譲る事は苦痛でも何でもなかった。

 ミイナは考えてみた。
 ミクの世界に連れていかれたミイナが走れなかった事。
 その代わりにミクが走っていた、気持ちよさそうに。
 大好きな若田先生に指導を受けていた。でも、ミイナはそれを不思議にも思わなかったし、何の疑問にも思わなかった。

 だけど胸のどこかで、はっきりとママの声が聞こえた気がして、同時に大好きなママの顔が心配そうに美似菜を見つめているように思った。あたたかいママの言葉。
「大丈夫よ」
 ママの言葉は胸にいつまでもいつまでも響いて消えない。

 そうして思った。何が大丈夫なんだろう、何が起きてるのかな。ママはどうしてこんなに悲しそうな瞳であたしを見つめているんだろう。
 握ってくれた手はとても暖かくて、今を知る事ができた。
 自分を想ってくれている気持ちが痛いほど感じられた。
 その瞬間、今までの出来事が総ざらいリピートした。

 待って、あの記憶は本当の出来事だったよね。あの記憶は事実だ。
 じゃいったい、あたしの見てきたことは、感じてきたことはなんだった?

 そうしてミイナには、わかったことがあった。
 ミクが生きている世界。ミイナとミク、二人の存在。


 そう思って目を凝らしてみると、大切なママがミクに手を引かれて走って行く姿が見えてきた。
 雲の中霧の中、夢中でその姿の見える先へ走った。なかなか近くには寄っていけないけれど、それでもそうするしか、ミイナに残されたできることは無いと思って走った、力一杯。
 心の中で、祈るような気持ちで。

 気がつくと雑踏の中、目の前を急ぎ足の人たち。
 すぐにそこがどこなのか理解した。
 そして、走って向かった先はダイニングカフェだったか、渋谷でお気に入りの場所だとわかった。

 いつか優馬と一緒に見たあの光景、ミクと優馬が待ち合わせをしていた場所、そして少し大人になったミイナがいた。あの場所。

 待ち合わせの場所からほどなく、その店は見えてくる。そして、外観は少し違っていたけれどその場所にあった店にミイナはまっすぐに入って行って、店内を見回す。

 奥の落ち着けそうな場所にミクと優馬が座っていて、その前に立ってこちらに歩き出したのは自分だった。
 はっとして見回すと、入り口すぐ横にママが座っていてそちらの様子を見ている。
 目の前を通り過ぎてゆく自分を見つめながら、すばやくママの横に座るとミイナは不安な顔をしているママの手を取って低い声で語りかけた、目の前にいる本当のママの心に届くように。

「ミイナ、なの?わたしが見えるの?」
 泣きそうな子どもみたいな表情で、ミイナを見つめてママはそう言った。
「うん、あたしね、思い出したんだ、いろんなことを。それでね、ママを連れ戻しに来た」
 それだけ言うとミイナは立ち上がり走ろうとした。
 すぐ目の前の扉を開ければ、きっと帰れるはず、そう心のどこかが叫んでいた。
 

「連れ戻す?あなた今病院にいるんじゃないの?」
「そう、ここは別の場所だよ。ミクの世界、あたしたちがいるべき場所じゃない」

目の前の光景が薄くなり目の前の椅子もステーキのいい匂いも薄く淡くなってゆく。
「早く、行かなくちゃ!」
 ミイナは足を止めた。
 ミクがミイナをにらんでいる。
「どいて!」
 ミイナが前に一歩踏み出す。
「どうして?あたしのママでもあるんだよ。ミイナいつでも独り占めして!いつでもいつでも、あたしはそれを羨ましく見ているだけだった」
 ミクの表情が緩んで泣きそうになる。そして、ひとこと、ミイナから目線をそらしてつぶやいた。
「そういう運命にしちゃったのは、ママだよね。ママが決めたんだよね」
 ミイナはママの顔を見て、驚いた。苦痛に歪んだ表情、漂う瞳は次第にうるんでくる。
「ごめんなさい」
 その言葉を口にして、椅子にもたれた。

 ここはミクの世界、彼女の思うように作られた街。
 ここにいるままじゃ、ママも自分も閉じ込められちゃう。
 ミイナはそう思うと、目の前にいるミクの身体を押した。
 「そんな事、しらないよ!!!」
 ミクを突き飛ばした。

 あたりは暗くなり、動けない二人。
 つぶされてしまう、ママがつぶれてしまう。
 ミイナはそう思うと、叫んだ。
「ここは、あたしの世界じゃないしママの世界でもない!ミク、ミクだけの世界なんだよ!」
 目の前のミクの顔が歪む。

 怒ったような表情は、怖くもあり哀れでもある。
 自分の表情がこんな風に変わるのか、と他人事のように思えて、可笑しくなった。
「おかしいよ、ミク!あたしたちはもっとかわいい顔してたじゃないの」

 その時、ママが立ち上がりミクを抱きしめた。隙間もないほどギュッと力いっぱい。
 振り返るミイナの目に涙を流しているママの顔が映ると、胸が締め付けられるように悲しい顔だった。

「ゆるして!だけど、何もしてあげられない。ミクが望むならわたしはここにとどまっていてもいい。だから、ミイナは自由にしてあげましょう。わたしがいれば、寂しくなんてないのよ」

 そうして、身体を離すと優しい笑顔になってうなずいた。

「あなたがそう望むのなら、いつまでも一緒にいましょうね」
 小さな子どもに言うように、優しくなだめるように。

 抱きしめられたミクは、戸惑った子猫のように不安な顔を作り、それでも首を振った。
「どうして?どうしてあたしの名前を呼んだの?どうして、ミイナじゃなくミクだったの?どうして?どうして?どうして?」
 泣き崩れるように椅子に腰かけて、いやいやをする。

「わからないわ、なぜ、あの時あなたの名前を呼んだのか。なぜ?わたしも何度も自分に問いかけた。それが、こんなに悲しい想いをさせるなんて思ってもいなかった。ごめんなさいね、悲しかったね、一人で寂しかったね。気づいてあげられなくて気づいてあげようともしないで、ごめんね、ごめんなさい」
 同じように泣き出したママの声は震えている。


 不意に揺れた。
 グラグラとどこかで雷が落ちるようにズンと足元が響く。

 強い風がドッと吹いてきて、何かが飛ばされてくる。立っているだけで精いっぱいでミイナは急いでママの手を握る。
 良かった、とミイナは思った。ママの手はそこにあって、目が開けられない中で手の温もりがしっかりと自分の手に感じられる。
 
「戻りたい!もどろう!」
 耳元で風の吹きすさぶ音がしている中で、声にならない声をあげる。

 ああ、ミクはもう一人のあたしだったのかもしれない、わがまま言ったりすねたり、ママやパパに甘えたい自分だったのかもしれない。

 あたしは本当は、ピンク色のリボンが結びたかったのに言えなかった、ピンク色のドレスが着たかったのに言い出せなかった。
 それは、わがままを言ってママやパパを困らせたかったからだったのかもしれないし、物分かりのいい大人みたいな顔しているその裏で、本音は別のところにあったのかもしれない。

 吹きすさぶ嵐の中で、一層握る手に力をいれた。
 絶対に離さない、どんなことがあっても連れて帰る。ミクがいない世界で一人で寂しくても、戻ろう。
 ミイナは強い風の中、勇気を出して、目を開けた。

 その瞬間、耳元で声が聞こえた。

「わたしはミクのそばに残るわ、ミイナは強い子、きっと大丈夫」
 手の中にあった暖かい温もりが、するんと逃げて行った。捕まえた魚を逃すようにつるりと手のひらから逃げ出して広い海の中に泳いでいった。

 振り返るミイナの瞳に映るのは、大好きな大好きなママの笑顔だったのに涙がこぼれて止まらなくなり、大きな声でミイナは泣いた。

 風が大きく吹いてきて、髪をなびかせて立っている事しかできないまま、ミイナは幼い子どものように悲しげに、恥ずかしげもなく大声で泣き叫んでいた。
 ママの笑顔は優しいまま、あったかいまま遠くなりうるんだ瞳の先にいつしか、見えなくなっていく。
「どうして」

 足元に涙がぽたぽたとこぼれる。その左足はしっかり大地を踏みしめているのを驚いた表情で見つめて立ちすくんでいた。身体の周りをくるくると風が舞い、そこに誰もいないと感じられて尚更悲しみが湧きあがって来る。
 もう一度大きな声で叫んだ。

「どうして!どうしてなの!」


< 11 / 17 >

この作品をシェア

pagetop