花鎖に甘咬み
“唯月くん”
たった1度きりしか呼んだことのない、その名前は、懐かしい思い出を連れてくる。
『ちとせ。この男が、お前の執事だ。これからは困ったことがあれば、まず彼に言いなさい』
『……っ』
かっちりとした燕尾服に身を包んだ彼の第一印象は怖かった。
お父様以外の男の人と日頃関わることのなかった私にとって、その人は未知の生物で。ただただ怯えていた私に、彼は、うやうやしく膝をついた。
十分大人の男の人が、8歳も年下の少女に対して跪いたのだ。
『はじめまして。柏木唯月と申します』
『……唯月、くん?』
ぽつり、呟いた私に彼はきっぱりと首を横に振る。
『駄目ですよ、お嬢様。あなたは主人で、私は執事。主従関係とは明確に上下関係なのですから、お嬢様は、私を “柏木” とお呼びください』
『でも……』
『私は執事ですから』
主従関係なんて……変なの。
そんなものを大切にしているなんて、変なの。
最初は柏木が何を考えているか、まったくわからなくて、怖かった。それでも重ねていく時間がゆっくりと違和感を消して、“柏木” は私の執事になっていった。
「ところで……そろそろ教えていただけませんか。一体、どこへ向かってるんです?」
もう執事じゃなくなった柏木が首を傾げる。