「指輪、探すの手伝ってくれませんか」

 社会人としては正しい対応をしたと思う。

「詩乃ッ!」
「おはようございます、作楽さん」
「ははっ、相変わらず真面目だな、詩乃は。いつもみたいに、てつ、って呼べよ」

 しかし、この男相手にする対応としてはどうしようもないくらいの間違いだった。社長室での一件のあと、すんなりと帰宅したからそれほど頭を抱える事でもなかったなと一瞬でも思った昨日の私の横っ面をひっぱたきたい。
 出社して、部長に紹介されて、挨拶ついでに社長の甥である事を(みずか)らバラして、さあ仕事をしましょう解散!となった瞬間に駆け寄って来るこいつには頭を抱える事しかなかった。

「作楽さん」

 いつも、とは、いつだよくそ野郎。
 約十二年、呼んでないし、出来る事なら苗字だって呼びたくない。あと詩乃って呼ぶな。

「いやだからさ、詩乃、」
「ここは、会社です」
「あ、うん、そうだな」
「遊び気分なのでしたら、ご自慢の叔父である社長に直接三ヶ月分の有給休暇を申請して海外でそれを満喫してはいかがでしょうか」
「し」
「私は仕事がありますので、失礼します」

 にこりと微笑んで、両手に抱えた大量の書類や資料を持ち直す。さっきまでざわざわとしていた空間がシーンと静まり返ったけれどそんなの知ったこっちゃない。おおかた、社長の甥に何て事を!とでも言いたいのだろう。社長の甥だろうが何だろうが勤めるのであればキビキビと働いて欲しい。というか働け。無駄口を叩くな。繁忙期でないからといって暇なわけじゃねぇんだよ。
 ぺこ、と軽く頭を下げて、自分のデスクへと向かう。道中、今日はあれとあれをしてそれからあれとあれを、なんて考えながら歩いていたら、部署の出入口からぴょこりと誰かが顔を覗かせているのが見えた。
 あれ、あの人。

「あ!いたいたぁ~志乃宮さぁん」

 確か昨日の、と海馬が稼働するのと時を同じくして吐き出されたのは間延びした甘えるような声。向けられた声と同方向の目線をたどれば、その先に居たのは珍しく眼鏡を外して手に持っている志乃宮さんだった。

「あれ、倉橋さん。どうかされました?」

 呼ばれたからだろう。すかさず眼鏡をかけて、彼はにこりと笑う。

「えへへ。急用ではないんですけどぉ、あのぉ、志乃宮さぁん、今日ってぇ、空いてますかぁ?」

 そんな彼に駆け寄り、さも当たり前のように彼の腕に触れた【倉橋さん】から、私は静かに視線を外した。
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