獅子に戯れる兎のように
 隣室が気になり、大きな声を上げることができず、黙って日向を睨み付けると、彼は深々と頭を下げ部屋を出て行った。

 すぐに内鍵を掛け、へなへなと床にへたり込む。

 キスなんてどうってことない。未経験ではないのに、ファーストキスを奪われた少女みたいに動揺している。

 日向は私に気付いてないの?
 私があの時の家庭教師だということを?

 日向はきっと食堂に向かったはず。今、顔を合わせたくない。

 食堂に電話を掛け、夕食をキャンセル出来ないかと問う。

『体調悪いの?雨に濡れていたから、体が冷えたのね。温かいお粥作って持って行ってあげるよ』

 おばちゃんの気遣いに、嘘をついた自分が恥ずかしくなる。

「でも……」

『私は寮にいる社員の健康管理を任されているの。給料貰ってるんだから、これは当然のこと。遠慮なんていらないよ』

「ありがとうございます」

 その場にへたりこんだまま身動き出来ない。

 三十分後、ドアがノックされ食堂のおばちゃんの声がした。

「お粥持ってきたよ」

「今、開けます」

 鍵を開けるとおばちゃんはにっこり笑った。

「はい。これを食べて元気つけなさい」

 お盆には一人用の土鍋と、生姜がたっぷり乗った湯豆腐。

「わざわざすみません」

 おばちゃんは玄関に視線を向けた。

「あら、靴が揃ってるわね。片方見つかったの?」

「……ヒールが折れて修理してもらったんです」

「そう。配達してもらったの?よかったわね。土鍋は明日の朝返してくれればいいからね。明日の朝食は用意して待ってるからね。暖かくしておやすみ。じゃあお大事に」

「はい。ありがとうございました」

 おばちゃんから受け取った夕食。熱々のお粥を食べながら、日向と交わしたキスを思い出す。

「……明日会社休もうかな。有給休暇も残ってるし」

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