獅子に戯れる兎のように
「友達ですか。でも私は結婚前提で雨宮さんとお付き合いしたい。そう思ってはダメでしょうか?」

 窓の外で突風が吹き、缶ビールがコロンと倒れた。缶の中に僅かに残っていたビールがバルコニーに零れる。まるで過去を洗い流せと言わんばかりに……。

「木崎さんありがとうございます。こんな私で良ければ……」

「雨宮さん、本当ですか?嬉しいな。ありがとう」

 私は……
 何を言ってるの?

 木崎に結婚前提のお付き合いをOKするなんて。

 心の中に……
 バルコニーに零れたビールのように、じわじわと木崎の言葉が滲んで広がっていく。

 これでいいんだ……。

 母がよく言っていた。

 ――『お見合いはね、そこから恋愛が始まるのよ。女は望まれてお嫁に行くのが一番いいの』

 南原のバースデーパーティーで知り合った私達。これはお見合いと同じ。

 過去は全て流す……。
 過去は全て捨て去る……。

 なのに……
 何故だろう。

 このあと、木崎とどんな話をしたのかすら覚えていない。



 ――翌朝、缶ビールは風でバルコニーの隅に転がり、溢れていたビールは蒸発していた。

 ビールの空き缶を片付け、食堂に向かう。日向はいつもの席で食事をしていた。

「おばちゃんおはようございます。和定食下さい」

「雨宮さんおはよう。和定食ね」

 おばちゃんは慣れた手つきで、お味噌汁やご飯をよそう。今日は鯵の開きと卵焼きとカボチャのそぼろ煮。

 私は迷うことなく日向の席に向かった。

「おはようございます。雨宮さん、どうぞ」

 日向は爽やかな笑みを向け、席に座るように促した。この爽やかな微笑みの下に、本当の顔が潜んでいる。

「日向さんおはようございます。私、もう同席はしません」

 日向が不思議そうに私を見ている。

「俺があの時の高校生だからですか?」

 食堂には数人の社員が食事をしていた。その中に吉倉の姿もあった。
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