獅子に戯れる兎のように
「昔のことは言わないで。不愉快だわ」

「そうですよね。俺は雨宮さんに酷いことをしました。でも雨宮さんは気付いていたんでしょう。だから小伝馬町にいた」

 日向もあの時……
 気付いていたんだ……。

 やっぱり私をからかっていた。
 そうなのね。

「私、結婚前提でお付き合いをしている人がいます。だから変な噂を社内で流されたくないの」

 トレイを両手で持ったまま、吉倉に視線を向けた。

「私と日向さんはお付き合いはしていません。学生時代、彼と面識があっただけ。だから誤解されるような噂は流さないで」

 吉倉は私をチラッと見て、ツンとそっぽを向き無視する。

 私は日向に背を向けた。
 日向が腕を掴む。トレイの上のお味噌汁がパシャッと音をたてて零れた。

「あの頃の俺と、今の俺は違う。ずっと謝りたくて、雨宮さんを捜していた」

 捕まれた腕が、ジンジンと痛む。

「……離して。迷惑です」

 日向の手がスッと離れる。温もりが離れ、心の中に冷たい風が吹いた。

 私は日向に背を向けたままテーブルに座る。日向の靴音がだんだん離れて行く。

 これでいい。
 私は木崎と結婚前提で交際すると決めたんだ。

 木崎とお見合いしたと思えばいい。愛はこれからゆっくり育めばいい。

 テーブルにトレイを置き、食事を始める。口の中に詰め込んでも、日向の残像を背中に感じ、なかなか飲み込むことが出来なかった。

 ◇

 その日、職場でも日向と目を合わせることはなかった。私と日向のことは、お喋りな吉倉のせいで、陽乃に筒抜けだった。

 でも陽乃も留空も、私が木崎と付き合うことを喜んでくれた。
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