獅子に戯れる兎のように
 解雇はもう覚悟している。他のバイトを探している最中だから。

『もう一度だけ行ってくれないかな。わざわざあなたを指名しているのに、授業もしないでこちらから断るなんて、これが噂にでもなれば、当社の信用にも関わるから』

「……でも」

『《《でも》》じゃないの。あなた一人の問題ではないと言ったはずよ。先方に伺って授業して下さい。選択肢はお客様にあるの。お願いしますね』

 私のこと気に入らないのに、すぐに解雇しないんだ……。

 それも複雑だな……。

「わかりました」

 家庭教師派遣会社の社員に押し切られ、うまく断ることが出来ず渋々承諾する。

 玄関先の傘立てには白いビニール傘。

 彼に借りを作りたくはない。ちょうどいい機会だ。訪問した際に、あの傘も返そう。そしてご両親と相談し担当を変更してもらおう。

 雨傘を安易に受け取ってしまったことを激しく後悔するとともに、彼にまた逢わなければいけないと思うと、胃がキリキリと痛み、どんよりとした雨空よりも憂鬱になる。

 でも……
 傘を差し出した彼の眼差しは、あの日私に乱暴した時の眼差しとは明らかに異なっていた。人を睨みつけるほどの鋭い眼差しと、雨に濡れる私に傘を差しかける優しい眼差し。

 どちらの姿が本当の彼なのか……。

 一瞬、彼の顔が頭を過ったが、今の私にはそんなことはどうでもよかった。
< 23 / 216 >

この作品をシェア

pagetop