獅子に戯れる兎のように
【陽side】

 彼女が飛び出したあと、ブラウスのボタンが引き出しの中に残っていることを思い出す。

 咄嗟にそのボタンを掴み、階段を駆け降りる。

「陽、どこ行くんだよ」

 お袋の声を無視し左右を見渡したが、靄《もや》が立ち込め人影が見えない。駅に続く狭い路地を走ると、前方を彼女がとぼとぼと歩いていた。

 彼女の姿を見つけた途端、足が止まる。

 彼女に声を掛けるつもりだった。

 でもその背中があまりにも寂しくて、声を掛けることが出来なかった。

 追い掛けたくせに、声を掛けることが出来ないなんて俺はバカか?

 彼女は駅には行かず、タクシーを止め乗り込んだ。

 もう二度と彼女と逢うことはないだろう。

 俺は彼女に無理矢理キスをしたんだ。
 嫌われて当然だから。

 でも、あのキスは彼女に挑発されたからじゃない。

 彼女の瞳が……あまりにも綺麗だったから。

 俺と彼女の間に運命なんてあるはずはない。

 でも、絡まった赤い糸が解けなければ、いつかまた逢えるかもしれない。

 ボタンを握り締めたまま、店に戻る。

「陽、暇なら店を手伝いな」

「未成年者を居酒屋で働かせんな」

「都合のいいときだけ、未成年者になるな」

「都合のいいときだけ、働かせてんのは母ちゃんだろ。勉強しろとか言うくせに、店を手伝え?意味わかんねぇよ」

 常連客の前で俺はお袋に歯向かう。黙って聞いていた親父が、厨房から身を乗り出し俺の頭を一発叩いた。

「だったら、ぐだぐだ言ってねぇで二階に上がって勉強しろ!大学に行くんだぞ、いいな!」

「ちぇっ」

 俺はドンドンと足で階段を鳴らす。ミシミシと踏み板は悲鳴を上げている。

「こら、階段を壊すんじゃないよ!」

 これしきで壊れるなんて、どんだけボロ家なんだよ。
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