獅子に戯れる兎のように
 ◇

 ―花菜菱デパート―

 虹原との恋に絶望し、それでも日常は繰り返される。

 昨日までは秘密のオフィスラブだとときめいていたのに、別れてしまうと同じフロアにいるだけで辛い。

 もしも虹原が、忌まわしい過去の残像を職場で誰かに話したら……。そう思うと、気が気ではない。

 虹原が見た画像が私であるなら、拡散した者は小暮しかいない。

 犯人はわかっているものの警察に被害届を出す勇気も、その画像を確かめる勇気もなく、ただじっと目も耳も塞ぎ時が流れ去るのを待つ。

 ロッカールームで誰かがヒソヒソ話しているだけで、陰口を囁かれている気がして、次第に私は職場で笑えなくなった。

「雨宮さんおはようございます。最近変ですよ。何かありました?」

「……山川さん、おはよう」

「若輩者ですが、相談に乗りますよ」

 ロッカールームで声を掛けてきたのは、総務部庶務課の山川晴子《やまかわはるこ》二十三歳。総務部一の美人社員で上司にも男性社員にも人気があり、明るく気配りの出来る女性だ。

「何でもないの。ちょっと体調崩しただけ」

「まさかおめでたではないですよね?悪阻《つわり》で体調不良とか?」

「おめでた!?やだ、何のこと?」

「雨宮さん最近体調悪そうだし、デキ婚するって噂を聞いたから気になって……」

「悪い冗談はやめて。妊娠なんてしてないわ」

「そうなんですか?すみません変なこと言って」

 私が妊娠しているなんて、一体誰がそんな噂を……。

「今お付き合いしている人はいないの。だからデキ婚なんてあり得ないから」

「本当にすみません。真面目でお堅い雨宮さんに限って、デキ婚なんてありえないですよね。噂って本当に怖いですね」

 女子の陰口には慣れているが、気分が沈んでいるだけで妊娠とか、憶測で噂を広めるのはやめて欲しい。

 制服に着替えた山川は、バツが悪そうに隣でメイクを直している。私はメイクも直さず、そのままロッカールームを出た。
< 39 / 216 >

この作品をシェア

pagetop