獅子に戯れる兎のように
「婚約なんて……」

「婚約も結婚も決まってないんですか?」

「それは……これからよ」

 日向に見栄を張るつもりもなかったけど、話の流れで思わず口から零れ落ちた嘘。

「まだ何も決まってないのなら、まだ間に合うかな」

「間に合う?」

 行き交う車の音が、日向の声を掻き消す。

 日向はバルコニーに腕を乗せ、煙草をくわえ煙を吐き出す。その横顔はとても大人びて見えた。

 ――『あんたよく見たら美人だな。スタイルも悪くねぇし、どうせするなら違う勉強教えてよ』

 不意に脳裏を過る、まだ高校生だった日向の暴言。

 同一人物なんだ。
 爽やかな好青年に見えるだけで、日向に騙されているのかも。

「じゃあ……おやすみなさい」

「雨宮さんおやすみなさい」

 バルコニーにサンダルを脱ぎ捨て、私は室内に入った。

 部屋に入ってからも、夜風に乗り煙草の煙が漂っている。

 トクントクンと早まる鼓動に、「意味わかんない」と一人で突っ込む。

 二十七歳、結婚適齢期真っ只中。
 学生時代の友人の中には、すでに子供がいる者もいる。

 三十四歳医師、誰もが羨む好条件の相手だ。

 もしこれがお見合いなら、きっとトキメキよりも経歴や職業を重視するのだろう。

 年収で男の価値は決まらないのに、両親ならきっと頭の中で算盤を弾く。

 結婚と恋愛は違う。
 愛だけで生活は成り立たない。
 これは母の口癖。

 少し大人になったのかな。
 母の言う意味が、最近理解出来るようになった。

 愛はいつか冷める。

 小暮や虹原のように……。

 燃え上がる感情も、恋するトキメキも、熱が冷めると全てがセピア色へと変わってしまう。
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