乳房星(たらちねぼし)・ドラマノベル版
【傷だらけの人生】
日本でくだらんもめ事が起こっていた頃、イワマツグループの全メンバーたちは世界各地で1日も休むことなく活動を続けていた。
10月14日、インドでの予定を終えたA班のメンバーたちは専用機に乗って旅に出た。
専用機は、コルカタのスバス・チャンドラ・ボーズ国際空港を出発して、バンコク経由でインドネシアへ向かった。
10月15日午後3時頃、A班のメンバーが乗っている専用機がジャカルタ・スカルノハッタ国際空港に到着した。
専用機を降りたメンバーたちは、空港ターミナル内にあるホテルへ向かった。
この日は、ホテルで身体を休める。
10月16日と17日は、インドネシア本社でお仕事をする予定である。
10月16日朝9時半頃であった。
ところ変わって、スカルノハッタ国際空港から700メートル先にあるインドネシア本社のオフィスビルにて…
この日は、大手空調設備メーカーの人たちと一緒に感染防止対策の空調設備の点検・修繕を1日かけて行った。
17日は、オフィスビルの窓ふき清掃をした。
18日から21日までの間、南スマトラ・西カリマンタン・中部ジャワ・パプアの各州へ外回りの仕事に出た。
10月23日は、シンガポール国際本社でひらかれる会議に出席した。
24日から26日の間、マレーシアのジョホール・ケダ・ペラの各州へ外回りの仕事に出た。
10月27日、インドネシア本社方面のお仕事を終えたA班のメンバーたちは、専用機に乗って再び旅に出た。
10月29日からは、カナダ方面でお仕事の予定が入っている。
(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)
10月29日からの予定は、カナダ国内でお仕事の予定が続いていた。
A班のメンバーたちは、カナディアン号(大陸横断特急)に乗って旅に出た。
10月30日と31日は、ジャスパーで商談のお仕事の予定が入っている。
私たちは、移動中の列車の中で商談の資料を作るお仕事をしていた。
10月30日の朝6時頃のことであった。
私がいるスクーパー・プラス・クラス(ひとり用の個室)の部屋にて…
私は、仕事の手を休めて車窓の風景をのんびりとながめていた。
窓の外からは、標高3954メートルのマウントロブソンが朝日に染まっている姿が見えていた。
気がついたら、私は一晩中商談の資料を作るお仕事をしていた…
車窓の風景は、マウント・ロブソンからムース湖の風景に変わっていた。
バンクーバーからトロントまでの鉄道の営業キロは4446キロ…
世界では、シベリア鉄道に続いて2番目に長い営業キロ…
東京~博多間の新幹線4往復分の営業キロである。
所用日数は、バンクーバーからジャスパーまでが1泊2日で、バンクーバーからトロントまでが4泊5日である。
ちなみに、シベリア鉄道でウラジオストクからモスクワまでの所用日数が7~8日と最も長い所用日数である。
カナディアン号は、それについで2番目に長い所用日数である。
10月30日の夕方4時頃に、ジャスパーの駅に列車が到着した。
列車を降りた私たちは、駅の近くにあるホテルへ行った。
ホテルに到着後、私たちは宿泊の手続きを取って、各自の部屋へ移った。
この日の夜は、明日の商談に備えるために早めに就寝する。
10月31日は、カルガリーからお越しになられた宝石商の主人と一緒にホテルのカフェテリアでダイヤモンド鉱山の採掘権のリース契約の更新などの商談のお仕事をした。
その日の夕方5時頃に、私たちはジャスパーの駅からカナディアン号に乗って、トロントへ向った。
11月4日は、トロントにあるモデルさん会社と売り子さん会社の関連のお仕事をする予定である。
(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)
車窓の風景は、金色に染まっている麦畑の風景が辺り一面に広まっている。
個室にいる私は、仕事の手を休めて、車窓の風景をゆっくりとながめながらネットウォークマンで1970年から1987年までの青春歌謡の歌を聴いて過ごした。
それから30分後に、トロントでの仕事に使う資料を作るお仕事を再開した。
11月4日の朝9時半過ぎに、4446キロの大陸横断の旅の終着駅のトロント・ユニオン駅に列車が到着した。
列車から降りた私たちは、駅でB班のメンバーたちと合流して、お仕事に取り組んだ。
私たちは、カナダ国内の予定のお仕事を11月7日の朝9時半過ぎまでした。
カナダ国内の予定を終えたA班のメンバーは、B班のメンバーたちと一緒に、トロント・ピアソーン国際空港から専用機が待機しているニューヨークJFK国際空港まで貸し切りの小型機に乗って行った。
ニューヨークに到着後、B班のメンバーはD班のメンバーたちと合流する予定となっている。
B班とD班のメンバーたちは、合流後に新作のランジェリーセットのモデルさん選考の打ち合わせなどのお仕事を始めた。
A班のメンバーたちは、ニューヨークのニュース専門チャンネルのテレビ局へ向かった。
夜9時から、全米で一斉に放映されるディベート番組に私が生出演する予定である。
A班のメンバーたちは、夜7時にテレビ局の受付で手続きを済ませて、楽屋に入った。
楽屋に入った後、私はビッグマックとブレンドコーヒーで晩ごはんを食べながら、討論番組で使う資料に目を通す。
夜8時15分にスーツ合わせをして、8時半にスタジオ入り…
その後、番組開始10分前まで書面に目を通した。
生放送開始10分前に、番組に出演するみなさまがスタジオに入った。
私は、生出演するみなさまと名刺のやり取りをしてごあいさつを交わす。
開始5分前に、所定の席について司会者の女性キャスターがお越しになるのをなるのを待つ。
番組に出演するメンバーは、お堅い人たちばかりである。
アメリカの経済界のリーダー・アメリカの上院議員・下院議員・カリフォルニア州知事・ペンダゴン(アメリカ国防総省)の報道官・アメリカ大統領補佐官・国務長官・ニュースタイムスの政治・軍事関連の記者・イギリスBBCテレビの記者…そして私・イワマツグループの総帥(総合オーナー)の合計30人である。
夜9時に、予定通りに生放送が始まった。
女性キャスターのごあいさつと出演するメンバーたちの紹介を経てディベートに入った。
今回のテーマは『深刻な中東情勢と世界はどのようにして向き合うべきなのか?』である。
ディベート開始直後から、私以外のメンバーたち29人が激しい英語のやり取りで繰り広げていた。
私は、どこで入ればいいのか分からずに困惑した。
ディベート番組が終了したあと、A班のメンバーたちは、テレビ局からダブルデッカーのバスに乗ってJFK国際空港まで折り返した。
空港に到着後、A班のメンバーたちは専用機に乗って、経由地のニースの国際空港まで行った。
専用機は、大西洋を横断してジブラルタル海峡から南仏の沿岸の上空を通過して、ニースの国際空港へ向かった。
ニースの国際空港に到着した後、貸し切りの小型機に乗り換えてロンドンのルトン空港まで行った。
ルトン空港に到着後、私たちは乗り継ぎ専用のロビーで休憩を取った。
それから120分後に、私たちは乗り継ぎの小型機に乗って、エディンバラの国際空港へ向かった。
11月13日からの予定は、スコットランドでお仕事である。
11月13日の朝10時過ぎのことであった。
ところ変わって、エディンバラのニュータウン・クイーンズストリートにある関連会社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のつけ間違いの有無を確認する。
夕方5時過ぎに、クイーンズストリートガーデンズの敷地にある水銀灯にポツポツと灯りが灯り出した。
それと同時に、通りの飲食店の灯りがポツポツと灯る。
通りを歩いている若いカップルさんたちや女の子同士のグループたちが、お目当てのお店へと向かっていた。
私は、バリスタで挽いたコーヒーをのみながら休憩する。
明日からは、外回りの仕事がたくさんあるので1日も休みがない。
休憩のあと、私は明日の仕事の準備を始めた。
11月14日から18日までの間、グラスコー~アバディーン~ウィック~インヴァネスと外回り営業のお仕事に出た。
11月18日の夕方に、スコットランドの予定が終わった。
A班のメンバーたちは、その日のうちに専用機に乗ってカザフスタンへ向かった。
11月21日からのスケジュールは、カザフスタン本社でお仕事である。
ところ変わって、アスタナ中心部のミラソヤン通りにあるカザフスタン本社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをしていた。
午後3時過ぎに、仕事が一息ついたので、アスタナのシンボルタワー・バイテレクへ行った。
バイテレクは、1997年にアスタナがカザフスタンの新しい首都になった記念に完成した地上105メートルのシンボルタワーである。
タワーの形は、東京スカイツリーとよくにている。
展望台にいる私は、碁盤目状の中心部の風景を見つめていた。
街の中心部にイシム川が流れている…
中央公園が整備されている近代都市アスタナは、札幌や京都の風景とよく似ている。
私は、アスタナの中心部の風景をながめながら何を考えていたのか…
11月22日から28日までの間、アクトへ~アティウラ~ベイネク~クズルオルダ~トルキスタン~アクトガイと外回り営業に出た。
11月28日に、カザフスタン本社の予定が終わった。
A班のメンバーたちは専用機に乗って、モンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港へ向かった。
アスタナを出発してから30分後に、専用機はセメイの上空を飛行していた。
旧ソ連時代に核兵器の実験場だった跡地を専用機の窓から見た私は、1986年のチェルノブイリ事故を思い出した。
森林と化したプリピャチの街…
いつになれば、もと暮らしていた場所へ帰ることができるのか…
そう思えば思うほど、胸がひどく痛む。
11月29日の午後3時過ぎに、私たちが乗っている専用機がモンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港に到着した。
専用機を降りた私たちは、空港からダブルデッカーのバスに乗って、エンフィタイヴァン大通りにあるモンゴル本社へ向かった。
11月30日からの予定は、モンゴル本社でのお仕事である。
ところ変わって、ウランバートル・エンフィタイヴァン大通りにあるモンゴル本社のオフィスビルの私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをしていた。
夕方5時半過ぎに、窓の外に写っているチンギスハーン広場に建っているチンギスハーン像がライトアップされた。
それと同時に、建物に灯りがポツポツと灯り始めた。
私は、個室の窓からウランバートルの中心部の風景をながめながらバリスタで挽いたコーヒーをのんでいた。
12月1日から7日までの間、ウブルハンガイ県~ドンドゴビ県~ゴビスンベル県~ヘンティ県~ハヤンホンゴル県~ゴビアルタイ県の各地を回って外回り営業のお仕事に出た。
8日は休暇を取って、みんなで西モンゴルのハラホリンへ行った。
ところ変わって、世界遺産に登録されているエルデニ・ソー寺院にて…
私たちは、ゆっくりとした足取りで寺院の境内を散策していた。
私は、灰色の曇におおわれた空を見上げながらいつになればお嫁さんが来るのだろうかと思っていた。
恋人の温もりがほしい…
だけど…
スケジュールが立て込んでいるけん…
休みがない…
どないしよかなー…
12月10日のことであった。
この日は、サンクトペテルブルク大宮殿国際本社で課長以上の営業会議が行われる日である。
私がいる個室では、朝から何かとバタバタとしていた。
12月9日に、ウランバートルチンギスハーン国際空港から専用機に乗ってサンクトペテルブルクプールゴヴォ国際空港まで行った。
サンクトペテルブルクプールゴヴォ国際空港には10日の朝6時半過ぎに到着した。
専用機を降りた私たちは、空港からダブルデッカーのバスに乗って、センナヤ広場の近くにある大宮殿国際本社まで行った。
朝7時半過ぎに、現地に到着した。
その直後から私がいる個室ではなにかとバタバタとしていた。
「あれれ…ズボンが小さくてはけないよ…」
「ああ…困ったな…ミンジュンさん!!」
「あっ、はい。」
「ヨシタカさんのウエストサイズに合うズボンをはよ出してくんなはれ!!」
「すぐに出しまーす!!」
私は、着替をしながらカロリーメイトブロックで朝ごはんを食べていた。
スーツに着替えて、朝ごはんを食べ終えた時には8時55分頃であった。
着替えが終わった後、会議室へ移動した。
所定の席についた後、わずかな時間を使ってケータイを開いてiモードのニュースを早読みする。
それからすぐに会議の資料に目を通す。
9時40分に会議室に課長以上のスタッフさんたちが入って来た。
その後、会議の準備を整える。
そして朝10時過ぎに会議が始まった。
それと同時に、激しいやり取りが繰り広げられた。
会議は午後3時過ぎに終わった。
このあとはサンクトペテルブルクの中央駅から国際列車に乗って、ヘルシンキへ向かう予定である。
出発準備を整えた後、ダブルデッカーのバスに乗ってサンクトペテルブルクの中央駅へ向かった。
サンクトペテルブルクの中央駅に到着後、私たちはすぐに国際列車に乗り込んだ。
夕方6時半過ぎに、私たちが乗っている国際列車がサンクトペテルブルクの中央駅を出発してヘルシンキへ向けて走り出した。
個室の座席にて…
私は、目を閉じて眠っている。
ミンジュンさんは、眠っている私を心配そうな表情で見つめていた。
翌朝7時半過ぎに、私たちが乗っている国際列車はヘルシンキの中央駅に到着した。
列車を降りた私たちは、ヘルシンキの中央駅からダブルデッカーのバスに乗って港へ向かった。
港に到着後、ホバークラフトに乗ってストックホルムへ向かった。
12月12日からは、北欧本社でお仕事をする。
12月12日のことであった。
ところ変わって、ストックホルム中央駅の近くにある北欧本社のオフィスビルの中にある個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをしていた。
12月13日はお休みであった。
メンバーたちは、ガムラ・スタン(ストックホルム発祥の地)へ行って、街並み散策をした。
リッダーホルム教会~大聖堂~ドイツ教会~モーデントローツィグ・グレン通り~ヴェステルロングガータン通り~大広場とめぐる観光コースをゆっくりとした足取りでめぐった。
午後3時頃に、大広場の近くにあるカフェテリアに行って、コーヒーをのんで過ごした。
12月14日から23日の間は、スウェーデン・フィンランド・ノルウェー・デンマークの各地へ行って、外回り営業のお仕事に出た。
このあとも、スケジュールはギッシリとつまっている。
10月14日、インドでの予定を終えたA班のメンバーたちは専用機に乗って旅に出た。
専用機は、コルカタのスバス・チャンドラ・ボーズ国際空港を出発して、バンコク経由でインドネシアへ向かった。
10月15日午後3時頃、A班のメンバーが乗っている専用機がジャカルタ・スカルノハッタ国際空港に到着した。
専用機を降りたメンバーたちは、空港ターミナル内にあるホテルへ向かった。
この日は、ホテルで身体を休める。
10月16日と17日は、インドネシア本社でお仕事をする予定である。
10月16日朝9時半頃であった。
ところ変わって、スカルノハッタ国際空港から700メートル先にあるインドネシア本社のオフィスビルにて…
この日は、大手空調設備メーカーの人たちと一緒に感染防止対策の空調設備の点検・修繕を1日かけて行った。
17日は、オフィスビルの窓ふき清掃をした。
18日から21日までの間、南スマトラ・西カリマンタン・中部ジャワ・パプアの各州へ外回りの仕事に出た。
10月23日は、シンガポール国際本社でひらかれる会議に出席した。
24日から26日の間、マレーシアのジョホール・ケダ・ペラの各州へ外回りの仕事に出た。
10月27日、インドネシア本社方面のお仕事を終えたA班のメンバーたちは、専用機に乗って再び旅に出た。
10月29日からは、カナダ方面でお仕事の予定が入っている。
(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)
10月29日からの予定は、カナダ国内でお仕事の予定が続いていた。
A班のメンバーたちは、カナディアン号(大陸横断特急)に乗って旅に出た。
10月30日と31日は、ジャスパーで商談のお仕事の予定が入っている。
私たちは、移動中の列車の中で商談の資料を作るお仕事をしていた。
10月30日の朝6時頃のことであった。
私がいるスクーパー・プラス・クラス(ひとり用の個室)の部屋にて…
私は、仕事の手を休めて車窓の風景をのんびりとながめていた。
窓の外からは、標高3954メートルのマウントロブソンが朝日に染まっている姿が見えていた。
気がついたら、私は一晩中商談の資料を作るお仕事をしていた…
車窓の風景は、マウント・ロブソンからムース湖の風景に変わっていた。
バンクーバーからトロントまでの鉄道の営業キロは4446キロ…
世界では、シベリア鉄道に続いて2番目に長い営業キロ…
東京~博多間の新幹線4往復分の営業キロである。
所用日数は、バンクーバーからジャスパーまでが1泊2日で、バンクーバーからトロントまでが4泊5日である。
ちなみに、シベリア鉄道でウラジオストクからモスクワまでの所用日数が7~8日と最も長い所用日数である。
カナディアン号は、それについで2番目に長い所用日数である。
10月30日の夕方4時頃に、ジャスパーの駅に列車が到着した。
列車を降りた私たちは、駅の近くにあるホテルへ行った。
ホテルに到着後、私たちは宿泊の手続きを取って、各自の部屋へ移った。
この日の夜は、明日の商談に備えるために早めに就寝する。
10月31日は、カルガリーからお越しになられた宝石商の主人と一緒にホテルのカフェテリアでダイヤモンド鉱山の採掘権のリース契約の更新などの商談のお仕事をした。
その日の夕方5時頃に、私たちはジャスパーの駅からカナディアン号に乗って、トロントへ向った。
11月4日は、トロントにあるモデルさん会社と売り子さん会社の関連のお仕事をする予定である。
(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)
車窓の風景は、金色に染まっている麦畑の風景が辺り一面に広まっている。
個室にいる私は、仕事の手を休めて、車窓の風景をゆっくりとながめながらネットウォークマンで1970年から1987年までの青春歌謡の歌を聴いて過ごした。
それから30分後に、トロントでの仕事に使う資料を作るお仕事を再開した。
11月4日の朝9時半過ぎに、4446キロの大陸横断の旅の終着駅のトロント・ユニオン駅に列車が到着した。
列車から降りた私たちは、駅でB班のメンバーたちと合流して、お仕事に取り組んだ。
私たちは、カナダ国内の予定のお仕事を11月7日の朝9時半過ぎまでした。
カナダ国内の予定を終えたA班のメンバーは、B班のメンバーたちと一緒に、トロント・ピアソーン国際空港から専用機が待機しているニューヨークJFK国際空港まで貸し切りの小型機に乗って行った。
ニューヨークに到着後、B班のメンバーはD班のメンバーたちと合流する予定となっている。
B班とD班のメンバーたちは、合流後に新作のランジェリーセットのモデルさん選考の打ち合わせなどのお仕事を始めた。
A班のメンバーたちは、ニューヨークのニュース専門チャンネルのテレビ局へ向かった。
夜9時から、全米で一斉に放映されるディベート番組に私が生出演する予定である。
A班のメンバーたちは、夜7時にテレビ局の受付で手続きを済ませて、楽屋に入った。
楽屋に入った後、私はビッグマックとブレンドコーヒーで晩ごはんを食べながら、討論番組で使う資料に目を通す。
夜8時15分にスーツ合わせをして、8時半にスタジオ入り…
その後、番組開始10分前まで書面に目を通した。
生放送開始10分前に、番組に出演するみなさまがスタジオに入った。
私は、生出演するみなさまと名刺のやり取りをしてごあいさつを交わす。
開始5分前に、所定の席について司会者の女性キャスターがお越しになるのをなるのを待つ。
番組に出演するメンバーは、お堅い人たちばかりである。
アメリカの経済界のリーダー・アメリカの上院議員・下院議員・カリフォルニア州知事・ペンダゴン(アメリカ国防総省)の報道官・アメリカ大統領補佐官・国務長官・ニュースタイムスの政治・軍事関連の記者・イギリスBBCテレビの記者…そして私・イワマツグループの総帥(総合オーナー)の合計30人である。
夜9時に、予定通りに生放送が始まった。
女性キャスターのごあいさつと出演するメンバーたちの紹介を経てディベートに入った。
今回のテーマは『深刻な中東情勢と世界はどのようにして向き合うべきなのか?』である。
ディベート開始直後から、私以外のメンバーたち29人が激しい英語のやり取りで繰り広げていた。
私は、どこで入ればいいのか分からずに困惑した。
ディベート番組が終了したあと、A班のメンバーたちは、テレビ局からダブルデッカーのバスに乗ってJFK国際空港まで折り返した。
空港に到着後、A班のメンバーたちは専用機に乗って、経由地のニースの国際空港まで行った。
専用機は、大西洋を横断してジブラルタル海峡から南仏の沿岸の上空を通過して、ニースの国際空港へ向かった。
ニースの国際空港に到着した後、貸し切りの小型機に乗り換えてロンドンのルトン空港まで行った。
ルトン空港に到着後、私たちは乗り継ぎ専用のロビーで休憩を取った。
それから120分後に、私たちは乗り継ぎの小型機に乗って、エディンバラの国際空港へ向かった。
11月13日からの予定は、スコットランドでお仕事である。
11月13日の朝10時過ぎのことであった。
ところ変わって、エディンバラのニュータウン・クイーンズストリートにある関連会社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のつけ間違いの有無を確認する。
夕方5時過ぎに、クイーンズストリートガーデンズの敷地にある水銀灯にポツポツと灯りが灯り出した。
それと同時に、通りの飲食店の灯りがポツポツと灯る。
通りを歩いている若いカップルさんたちや女の子同士のグループたちが、お目当てのお店へと向かっていた。
私は、バリスタで挽いたコーヒーをのみながら休憩する。
明日からは、外回りの仕事がたくさんあるので1日も休みがない。
休憩のあと、私は明日の仕事の準備を始めた。
11月14日から18日までの間、グラスコー~アバディーン~ウィック~インヴァネスと外回り営業のお仕事に出た。
11月18日の夕方に、スコットランドの予定が終わった。
A班のメンバーたちは、その日のうちに専用機に乗ってカザフスタンへ向かった。
11月21日からのスケジュールは、カザフスタン本社でお仕事である。
ところ変わって、アスタナ中心部のミラソヤン通りにあるカザフスタン本社のオフィスビルの中にある私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをしていた。
午後3時過ぎに、仕事が一息ついたので、アスタナのシンボルタワー・バイテレクへ行った。
バイテレクは、1997年にアスタナがカザフスタンの新しい首都になった記念に完成した地上105メートルのシンボルタワーである。
タワーの形は、東京スカイツリーとよくにている。
展望台にいる私は、碁盤目状の中心部の風景を見つめていた。
街の中心部にイシム川が流れている…
中央公園が整備されている近代都市アスタナは、札幌や京都の風景とよく似ている。
私は、アスタナの中心部の風景をながめながら何を考えていたのか…
11月22日から28日までの間、アクトへ~アティウラ~ベイネク~クズルオルダ~トルキスタン~アクトガイと外回り営業に出た。
11月28日に、カザフスタン本社の予定が終わった。
A班のメンバーたちは専用機に乗って、モンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港へ向かった。
アスタナを出発してから30分後に、専用機はセメイの上空を飛行していた。
旧ソ連時代に核兵器の実験場だった跡地を専用機の窓から見た私は、1986年のチェルノブイリ事故を思い出した。
森林と化したプリピャチの街…
いつになれば、もと暮らしていた場所へ帰ることができるのか…
そう思えば思うほど、胸がひどく痛む。
11月29日の午後3時過ぎに、私たちが乗っている専用機がモンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港に到着した。
専用機を降りた私たちは、空港からダブルデッカーのバスに乗って、エンフィタイヴァン大通りにあるモンゴル本社へ向かった。
11月30日からの予定は、モンゴル本社でのお仕事である。
ところ変わって、ウランバートル・エンフィタイヴァン大通りにあるモンゴル本社のオフィスビルの私の個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをしていた。
夕方5時半過ぎに、窓の外に写っているチンギスハーン広場に建っているチンギスハーン像がライトアップされた。
それと同時に、建物に灯りがポツポツと灯り始めた。
私は、個室の窓からウランバートルの中心部の風景をながめながらバリスタで挽いたコーヒーをのんでいた。
12月1日から7日までの間、ウブルハンガイ県~ドンドゴビ県~ゴビスンベル県~ヘンティ県~ハヤンホンゴル県~ゴビアルタイ県の各地を回って外回り営業のお仕事に出た。
8日は休暇を取って、みんなで西モンゴルのハラホリンへ行った。
ところ変わって、世界遺産に登録されているエルデニ・ソー寺院にて…
私たちは、ゆっくりとした足取りで寺院の境内を散策していた。
私は、灰色の曇におおわれた空を見上げながらいつになればお嫁さんが来るのだろうかと思っていた。
恋人の温もりがほしい…
だけど…
スケジュールが立て込んでいるけん…
休みがない…
どないしよかなー…
12月10日のことであった。
この日は、サンクトペテルブルク大宮殿国際本社で課長以上の営業会議が行われる日である。
私がいる個室では、朝から何かとバタバタとしていた。
12月9日に、ウランバートルチンギスハーン国際空港から専用機に乗ってサンクトペテルブルクプールゴヴォ国際空港まで行った。
サンクトペテルブルクプールゴヴォ国際空港には10日の朝6時半過ぎに到着した。
専用機を降りた私たちは、空港からダブルデッカーのバスに乗って、センナヤ広場の近くにある大宮殿国際本社まで行った。
朝7時半過ぎに、現地に到着した。
その直後から私がいる個室ではなにかとバタバタとしていた。
「あれれ…ズボンが小さくてはけないよ…」
「ああ…困ったな…ミンジュンさん!!」
「あっ、はい。」
「ヨシタカさんのウエストサイズに合うズボンをはよ出してくんなはれ!!」
「すぐに出しまーす!!」
私は、着替をしながらカロリーメイトブロックで朝ごはんを食べていた。
スーツに着替えて、朝ごはんを食べ終えた時には8時55分頃であった。
着替えが終わった後、会議室へ移動した。
所定の席についた後、わずかな時間を使ってケータイを開いてiモードのニュースを早読みする。
それからすぐに会議の資料に目を通す。
9時40分に会議室に課長以上のスタッフさんたちが入って来た。
その後、会議の準備を整える。
そして朝10時過ぎに会議が始まった。
それと同時に、激しいやり取りが繰り広げられた。
会議は午後3時過ぎに終わった。
このあとはサンクトペテルブルクの中央駅から国際列車に乗って、ヘルシンキへ向かう予定である。
出発準備を整えた後、ダブルデッカーのバスに乗ってサンクトペテルブルクの中央駅へ向かった。
サンクトペテルブルクの中央駅に到着後、私たちはすぐに国際列車に乗り込んだ。
夕方6時半過ぎに、私たちが乗っている国際列車がサンクトペテルブルクの中央駅を出発してヘルシンキへ向けて走り出した。
個室の座席にて…
私は、目を閉じて眠っている。
ミンジュンさんは、眠っている私を心配そうな表情で見つめていた。
翌朝7時半過ぎに、私たちが乗っている国際列車はヘルシンキの中央駅に到着した。
列車を降りた私たちは、ヘルシンキの中央駅からダブルデッカーのバスに乗って港へ向かった。
港に到着後、ホバークラフトに乗ってストックホルムへ向かった。
12月12日からは、北欧本社でお仕事をする。
12月12日のことであった。
ところ変わって、ストックホルム中央駅の近くにある北欧本社のオフィスビルの中にある個室にて…
(ジー…パチパチパチ…)
私は、そろばんを使って帳簿のチェックをしていた。
12月13日はお休みであった。
メンバーたちは、ガムラ・スタン(ストックホルム発祥の地)へ行って、街並み散策をした。
リッダーホルム教会~大聖堂~ドイツ教会~モーデントローツィグ・グレン通り~ヴェステルロングガータン通り~大広場とめぐる観光コースをゆっくりとした足取りでめぐった。
午後3時頃に、大広場の近くにあるカフェテリアに行って、コーヒーをのんで過ごした。
12月14日から23日の間は、スウェーデン・フィンランド・ノルウェー・デンマークの各地へ行って、外回り営業のお仕事に出た。
このあとも、スケジュールはギッシリとつまっている。