アフター5はメガネをはずして
そして、何度も何度もお礼を言って、あかりさんが帰った後。
「ナツメはね、麦ちゃんの名前を考える時にね、最後まで道人さんと『どっちがいいだろう』って、迷った名前だったのよ」
店の戸締りをすませ、いい加減寝ないと明日がつらいからと2階に上がろうとした時、ふいに母がポツリとつぶやいた。
「普通のお母さんなら、娘が水商売で働くなんて反対するかもしれない。でもね、私は銀座のお客様に育ててもらって、助けてもらって、ここまでやってこれたの」
「……お母さん」
店の奥にある階段の手すりに手をかけ、後ろにいる母を振り返る。
朝から晩まで立ちっぱなしで働いている母。
若く見えるとはいえ、体力も気力も、徐々に衰えてきているのだろう。
目尻には疲れがありありと滲んでいた。
「それにね、自分の娘に2つも名前をつけられるなんて、幸せだわ。道人さんもね、綺麗に着飾った麦ちゃんを見たら、きっときっと喜んでくれるはずよ」
そう言ってふふふ、と微笑む母を見ていると、ふいに、自分が誰の役にも立っていないかのような罪悪感に見舞われた。
動機は何にせよ、世間から差別されやすい職業を自らの意志で選択し、信念を持って働いている母とあかりさん。
(それに比べて私は……)
「あかりちゃんを助けてくれてありがとうね、麦ちゃん」
「……うん」
私は曖昧に頷くと、心の揺れを母に悟られないよう、急いで階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込んだ。
ベッドにドサッと体を預け、幼い頃、母がいない夜に父が話してくれた昔話をぼんやりと思い出す。
堀田麦。
私の本名は、私が9月生まれで乙女座であることが由来だそうだ。
天文学者の父と占い好きの母らしく、星座にまつわるギリシャ神話をいろいろ調べたところ、乙女座のモチーフになったと考えられる女性が麦とナツメヤシの葉を手に持っていたことから、私は麦と命名された。
「お父さんは、麦が生まれてうれしかった?」
そう父に尋ねた自分の声はありありと思い出せるのに。
その質問に父がなんと答えたか。
その時の父の声はどんな声だったのか。
もう、ずっと前から私は思い出せないでいる。
そんな、母と父の思い出の名前を源氏名としていただいてしまったからには……。
最低限、「あなたにお願いしてよかった」と言ってもらえるくらい、できる限りのことはしなければならない。
(どこまでできるかわからないけど、やれるだけやってみよう)
もう「逃げる」という選択肢は、私の中にはない。
いざ行動するとなると、やっぱり自信のなさからか、自分に言い訳しがちになるけれど、母とあかりさんの期待を裏切るわけにはいかない。
(会社では、私がホステスとしてバイトを始めること、絶対に秘密にしなきゃ。バレたら最悪、辞めることになる)
「ナツメはね、麦ちゃんの名前を考える時にね、最後まで道人さんと『どっちがいいだろう』って、迷った名前だったのよ」
店の戸締りをすませ、いい加減寝ないと明日がつらいからと2階に上がろうとした時、ふいに母がポツリとつぶやいた。
「普通のお母さんなら、娘が水商売で働くなんて反対するかもしれない。でもね、私は銀座のお客様に育ててもらって、助けてもらって、ここまでやってこれたの」
「……お母さん」
店の奥にある階段の手すりに手をかけ、後ろにいる母を振り返る。
朝から晩まで立ちっぱなしで働いている母。
若く見えるとはいえ、体力も気力も、徐々に衰えてきているのだろう。
目尻には疲れがありありと滲んでいた。
「それにね、自分の娘に2つも名前をつけられるなんて、幸せだわ。道人さんもね、綺麗に着飾った麦ちゃんを見たら、きっときっと喜んでくれるはずよ」
そう言ってふふふ、と微笑む母を見ていると、ふいに、自分が誰の役にも立っていないかのような罪悪感に見舞われた。
動機は何にせよ、世間から差別されやすい職業を自らの意志で選択し、信念を持って働いている母とあかりさん。
(それに比べて私は……)
「あかりちゃんを助けてくれてありがとうね、麦ちゃん」
「……うん」
私は曖昧に頷くと、心の揺れを母に悟られないよう、急いで階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込んだ。
ベッドにドサッと体を預け、幼い頃、母がいない夜に父が話してくれた昔話をぼんやりと思い出す。
堀田麦。
私の本名は、私が9月生まれで乙女座であることが由来だそうだ。
天文学者の父と占い好きの母らしく、星座にまつわるギリシャ神話をいろいろ調べたところ、乙女座のモチーフになったと考えられる女性が麦とナツメヤシの葉を手に持っていたことから、私は麦と命名された。
「お父さんは、麦が生まれてうれしかった?」
そう父に尋ねた自分の声はありありと思い出せるのに。
その質問に父がなんと答えたか。
その時の父の声はどんな声だったのか。
もう、ずっと前から私は思い出せないでいる。
そんな、母と父の思い出の名前を源氏名としていただいてしまったからには……。
最低限、「あなたにお願いしてよかった」と言ってもらえるくらい、できる限りのことはしなければならない。
(どこまでできるかわからないけど、やれるだけやってみよう)
もう「逃げる」という選択肢は、私の中にはない。
いざ行動するとなると、やっぱり自信のなさからか、自分に言い訳しがちになるけれど、母とあかりさんの期待を裏切るわけにはいかない。
(会社では、私がホステスとしてバイトを始めること、絶対に秘密にしなきゃ。バレたら最悪、辞めることになる)