私のために、もう一杯
 ふと、気が付いてしまった。
(近くに来ないで欲しい…)

 夕食後、二人リビングで見るともなしにつけっぱなしにしていたテレビを眺めていた時。
 コーヒーを片手に、夫が紗良の隣のソファに腰掛けた。
 密着するわけではない。肩と肩の間は10センチほど空いている。
 それでも。
 紗良は、その距離にすら我慢が出来なかった。

◇◆◇

「いらっしゃいませ」
 カランコロン、と、入り口のドアに取り付けられたカウベルが乾いた優しい音を立てる。史郎は振り返らずともそれが誰だか分かった。
「紗良さん、今日入りたてのブルー・マウンテンがありますよ」
「あ、飲みたい!いいですか?」
「はい、お待ちください」

 紗良の隠れ家的な喫茶店「茜亭」。
 仕事場からも家からも近くない、帰り道の途中でもない。
 たまたま散策をしていた時に外観に惹かれて入って、気に入った。
 コーヒーも、オーナーも。
 今では史郎がいない毎日など考えられない。
 コーヒーの趣味も、音楽の好みも、好きな写真も、沈黙の度合いも、何もかもが「もう一人の自分がいる」と錯覚するほどよく似ている。居心地の悪いはずがない。
 史郎が紗良をどう思っているかは、知らない。今はまだ知りたくない。紗良の望まない答えは聞きたくないからだ。
 
 今はこうして、たまに店に来て、よそでは飲めないコーヒーを飲み、史郎の仕事姿を眺めながら偶に一言二言交わせれば十分だ。
 
 もしかしたら、私はまた恋が出来たのかもしれない。

 そんな感情は、もう自分の中から消えてしまったと思ったのに。
 毎日の生活が安定して、仕事にやりがいがあって、余計な心配事さえなければ日々は安泰だと、それを「幸せ」と呼ぶのだと、自分に言い聞かせてきた。
 でももう、その時には戻れない。
 史郎の姿を見たときの幸福感。
 言葉を交わした時の充実感。
 確かなものは何もないのに、確実に共有出来ている時間と、紗良の血液を流れる高揚感こそが、今の紗良を支えていた。

 何も望まない。ただこの時間を、確実に毎日繰り返すことさえ出来れば、紗良は幸せだった。
 逆に言えば、それ以外のものは、もう紗良には必要無くなっていた。

◇◆◇

 夫の体温が伝わってきそうな距離への憂鬱さは、裏を返せば史郎への思慕の強さだった。
(隣にいるのが、もし史郎だったら)
 絶対に考えてはいけない仮定に体が熱くなる。急に、現実が手触りの悪い古びた毛布のように思えて、そんな自分への嫌悪感でいっぱいになった。

 自分は史郎にとって常連客の一人。結婚していることも知っているし、最初に夫の話もした。『仲がいいんですね』と言われたから、きっと円満な夫婦だと思われているだろう。
 夫と関係性に問題はない。あるとすれば紗良の心ひとつだ。
 もう、自分の中には史郎以外誰も入れたくない。今までは夫がいた、まだ夫が占拠しているスペースもすべて史郎で埋め尽くしたい。
 心に思うだけでも非道い裏切りだと分っていても、所詮形になることのない愛と分かっていても、気が付けば史郎のことを考えて、それが当たり前になってしまった。もし同じことを夫が考えていたら―?辛いと感じない自分に愕然とした。夫婦だから相思っていなければいけないという常識を何度思い浮かべても、何の役にも立たなかった。

◇◆◇

「コーヒー、お代わりあるよ?」
 ふと聞こえた夫の声が紗良を引き戻す。ううん大丈夫、と返事をし、またどうでもいい内容が続くテレビに目だけ向けた。
 
 いつまで、このまま生活が出来るだろう。
 いつまで自分は、耐えられるだろう。
 もう元へは戻れない。そのことだけは確実で、紗良も断言出来るのだった。

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