私のために、もう一杯
木曜日。
いつもなら夕方に「茜亭」による日だが、紗良は迷っていた。
(気づかれただろうか…)
指輪は落としたわけではない。置いてきたのだ。
結婚指輪は普通の指輪とは違う。0.5サイズまで細かく測って作る。余程指の太さが変わらない限り、自然に抜け落ちることはない。
しかしおそらく独身だろう史郎は、そんなことには気が付かないだろう。
万が一史郎が|落ちている指輪に気づかなくても、それでもいい。それが、指輪の行く末なのだ。
そして自分の手の届かないところへ行けば、結婚生活も指輪と一緒にどこかへ行くかもしれない。自然に、するっと。
現実にそんなことが起こり得るわけないと分っていながら、賭けのような、願掛けのような思いで置いてきたのだった。
◇◆◇
朝起きたときは、今日は茜亭へ行くことはやめようと思っていた。
気づかれなかった、または同じ席に座ったらそのまま置いてあったことを想像したら、密かに灯った光が消えてしまうような気がしたからだ。
何の変哲もない平穏な毎日。人はそれが夫婦生活だと、幸せだと呼ぶのだろう。もちろん健康で物質に不自由のない生活だからこそ言えるのだとも分かっているが、今は史郎に由来するものは何一つ失いたくない。
しかし、夕方にはその決意は崩れていた。
普段通り、茜亭へ足が向く。自然と心も体も軽くなっていることに気づきながら、カウベルを鳴らして店に入った。
◇◆◇
珍しく、と言うと失礼かもしれないが、その日は普段より混んでいた。
「いらっしゃいませ…、あ、いらっしゃい。いつもの席どうぞ」
紗良に気づいた史郎が微笑みながら奥のカウンター席を示し、紗良は会釈して進んだ。
「今日、混んでますね」
「はい、珍しく…。あ、僕がこう言っちゃいけないかな」
恥ずかしそうな笑顔に、紗良は惹きこまれる。
(やっぱり、来てよかった…)
今、紗良と史郎を繋げるのはこの店しかない。ここに来なければ、史郎とは繋がれない。
「お忙しそうですから、私は後でいいですよ」
「いえいえ、もうオーダーは出ていますから。とっておきのコーヒーとスイーツがあるんですよ。いかがですか?」
「嬉しいです。じゃあ、今日はそれで」
「はい。少々お待ちくださいませ」
紗良はスツールに腰掛け直し、今しがたのやり取りを反芻する。
いつもの席、とっておきのメニュー。
普通の客とはほんの少し違う扱いをしてもらったことが、史郎と自分の距離を表しているように思えた。
裏を返せば「少し仲のいい店主と客」でしかないことも、紗良は自覚しているのだが、今はそこへ思いを至らせたくなかった。
いつもなら夕方に「茜亭」による日だが、紗良は迷っていた。
(気づかれただろうか…)
指輪は落としたわけではない。置いてきたのだ。
結婚指輪は普通の指輪とは違う。0.5サイズまで細かく測って作る。余程指の太さが変わらない限り、自然に抜け落ちることはない。
しかしおそらく独身だろう史郎は、そんなことには気が付かないだろう。
万が一史郎が|落ちている指輪に気づかなくても、それでもいい。それが、指輪の行く末なのだ。
そして自分の手の届かないところへ行けば、結婚生活も指輪と一緒にどこかへ行くかもしれない。自然に、するっと。
現実にそんなことが起こり得るわけないと分っていながら、賭けのような、願掛けのような思いで置いてきたのだった。
◇◆◇
朝起きたときは、今日は茜亭へ行くことはやめようと思っていた。
気づかれなかった、または同じ席に座ったらそのまま置いてあったことを想像したら、密かに灯った光が消えてしまうような気がしたからだ。
何の変哲もない平穏な毎日。人はそれが夫婦生活だと、幸せだと呼ぶのだろう。もちろん健康で物質に不自由のない生活だからこそ言えるのだとも分かっているが、今は史郎に由来するものは何一つ失いたくない。
しかし、夕方にはその決意は崩れていた。
普段通り、茜亭へ足が向く。自然と心も体も軽くなっていることに気づきながら、カウベルを鳴らして店に入った。
◇◆◇
珍しく、と言うと失礼かもしれないが、その日は普段より混んでいた。
「いらっしゃいませ…、あ、いらっしゃい。いつもの席どうぞ」
紗良に気づいた史郎が微笑みながら奥のカウンター席を示し、紗良は会釈して進んだ。
「今日、混んでますね」
「はい、珍しく…。あ、僕がこう言っちゃいけないかな」
恥ずかしそうな笑顔に、紗良は惹きこまれる。
(やっぱり、来てよかった…)
今、紗良と史郎を繋げるのはこの店しかない。ここに来なければ、史郎とは繋がれない。
「お忙しそうですから、私は後でいいですよ」
「いえいえ、もうオーダーは出ていますから。とっておきのコーヒーとスイーツがあるんですよ。いかがですか?」
「嬉しいです。じゃあ、今日はそれで」
「はい。少々お待ちくださいませ」
紗良はスツールに腰掛け直し、今しがたのやり取りを反芻する。
いつもの席、とっておきのメニュー。
普通の客とはほんの少し違う扱いをしてもらったことが、史郎と自分の距離を表しているように思えた。
裏を返せば「少し仲のいい店主と客」でしかないことも、紗良は自覚しているのだが、今はそこへ思いを至らせたくなかった。