私のために、もう一杯
 普段なら小一時間で帰る紗良が、今日はもう二時間近く店に居続けていた。
 丁度客足も鈍る時間帯で店としては問題ないのだが、
(帰らなくて大丈夫なのだろうか)
 と、史郎は気になり始めた。客足が鈍るのも、客は女性客が多い上に夕食の支度などで忙しくなる時間帯だからでもある。
 しかし楽しそうに話し続ける紗良を止めるのも気が咎めて、彼女の好きにさせていた。

 紗良が教えてくれた彼女のアカウントには、茜亭の写真がいくつもアップされていた。
 コーヒー、スイーツ、店の入り口のグリーン、壁に掛けた写真。
 写真は下手だから、と言っていたが、中々に雰囲気の出ているいい写真が多かった。
「こんな風に撮ってもらえて……。ありがとうございます」
「いいえ……。お店の迷惑になってはいけないと思って、店名は伏せているんですが、近くに住んでいるフォロワーからはお店を教えて欲しいって言われたりしますよ」
「名前出していただいて全然構いませんよ。むしろありがたいです」
 言いながら、紗良の帰宅時間が気になった流れで思い出した。

「そうだ……、紗良さん、忘れ物しませんでした?」
 急に厳しい表情をした紗良を訝しく思いながら、レジに仕舞った指輪を持ってきた。
「先日、紗良さんの定位置の下に落ちてたんです」
 史郎はそっと、件のプラチナリングを差し出した。

◇◆◇

 紗良が《《置いていった》》指輪を唐突に史郎から差し出され、ふわふわした甘やかな気分に冷水をぶっかけられたように感じた。
 確かにそれは、紗良の指輪だ。結婚して約十年。この店に置いて帰るまで一度も外したことのない、夫とお揃いの結婚指輪。

 紗良の表情を見て持ち主を確信した史郎は、ほっとしたように微笑んだ。
「良かった……。大事なものですもんね」
 紗良よりずっと大切そうに指輪を扱いながら、紗良へ差し出してくる。
 確かに大事な指輪だ。しかし紗良は、
(今出してほしくなかった……)
 史郎の親切はよくわかる。彼の人柄からして想定内の対応だ。
 それでも。紗良が置いていった意図は何一つ伝わっていないことに、当たり前なのだが落ち込んだし傷ついた。
 史郎とSNS交換が出来て幸せだったのに、すべてが台無しになったようだ。

(どんだけよ……)
 自分の身勝手さに内心ため息をつきながら、この気持ちは史郎に伝わってほしくないと思い、無理に笑顔を作って指輪を受け取った。

「こんなところにあったんですね。ありがとうございます」
「いえいえ。お返し出来て良かった」
 紗良が差し出した手の平に、史郎はそっと、確かに指輪を置いた。
 小さく軽いはずの指輪が、紗良の心のように重かった。
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