赤鬼と黒い蝶
 即ち……それは……。

 男と契りを交わすことが、苦痛ではないと体に刻み込まれた証拠。

 帰蝶に女の悦びを教え、女の(さが)に目覚めさせたのは、この信長ではない。

 脳裏に、明智光秀の眼差しが過ぎる。

「もうよい。わしは生涯そなたを抱くことはないだろう。そなたを抱いたとて、心が通じるわけではないからな」

(……殿)

「鳴かぬ女を妖艶なまでに美しい蝶にしたのは、あの明智光秀であろう」

 帰蝶は目を見開き、首を左右に振り否定した。その瞳には涙が滲んでいる。

(……違います。そのようなことは決してございませぬ)

 形振り構わず光秀を必至で庇う帰蝶。

 やはり……。
 そうであったか……。

 『明智光秀』その名をこの胸に刻み付け、生涯忘れはしない。

「そなたは織田信長の正室なり。明智城に帰し、明智光安軍と斎藤義龍軍の争いに巻き込んだことは、申し訳ないと思うておる。これからは奇妙丸のよき母となり、ここで暮らすがよい」

(……有り難き幸せ)

 三つ指ついて頭を垂れる帰蝶を見下ろし立ち上がる。

 ――明智光秀よ。
 天下人織田信長の正室と不義密通し、何くわぬ顔でわしに帰蝶を差し出した貴様を、このままにはしておかぬ。

 帰蝶の寝所を出て、紅の元に向かう。

 紅は奇妙丸を寝かし付けていたが、突然襖を開けたわしを見て、目を見開いた。

「隣室で待つ」

「……殿!?」

 ――数分後、紅は隣室に姿を現した。

「奇妙丸はもう寝たのか」

「……はい」

「いつまでも甘やかさず、一人で寝せればよいのじゃ」

「いえ、愛しくて……。俺が離れたくないのです」

 紅の眼差しに、母性を垣間見る。

「紅、近う寄れ」

「なりませぬ。帰蝶様がお戻りになられたからには、もうここには来ないで下さい」

「何故だ」

「なぜ……? わからぬのですか? 帰蝶様がお気に召さぬなら、側室の元でおやすみになればよいではありませぬか!」

 紅は感情を高ぶらせ、わしの前で声を荒げた。
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