救われ王子にロックオン~溺愛(お礼)はご遠慮させて頂きます~

岬を離れ、あやめが光治を連れてきたのは、海を一望できる小高い丘にある墓地の一角だった。

「ここは・・・」

「母が眠る場所です」

樹木を墓標(シンボルツリー)とする樹木葬。

あやめの母、楓(かえで)のシンボルツリーは楓(メープル)だった。

「私の父・卓次郎は、かつて都心の大学病院では名の知れた心臓血管外科医でした。看護師の母とはそこで知り合ったそうです」

その言葉を皮切りに、あやめは淡々と昔話を始めた。

光治は、楓の木に抱きついて話を始めるあやめの言葉を遮らずに黙って耳を傾ける。

あやめの父・卓次郎と母・楓は、知り合って2年後に結婚した。

あやめを身ごもった楓は、妊娠9ヶ月の時、里帰り分娩をすることを決意し都心から離れたN島に一人で帰省する。

心臓血管外科医としての経験を積んでいる途中だった卓次郎は、身重の妻を気遣いつつも1人大学病院に残り仕事に没頭する毎日。

ジェット機で30分かかる離島に帰省している妻との連絡はままならず、職場と単身用の医師公舎を往復する毎日にクタクタになりながらも仕事に邁進していた。

そんな中、楓は予定よりも早くあやめを出産することになる。

定期検診もままならない島で暮らす楓は、妊娠後期に妊娠中毒症を発症していることにも気づかず、あやめを出産する際に子癇(しかん)発作を起こし命を落としてしまった。

子癇発作とは、妊娠高血圧を本態とした産婦や褥婦に発症する異常高血圧や痙攣、意識障害を伴う状態である。

適切な処置がなされれば助かることもあるが、発症してしまうと集中治療を要することも多い。

村には助産師はいたが、当時、産婦人科医はいなかった。

唯一いた診療所の医師も、たまたま防災ヘリで急患を本土へ送って行く途中で不在。

対応に当たった助産師も生まれてくる赤子を助けることに必死で、楓のフォローにまで手が回らなかったというのが現状だった。

「誰のことも責められず母の死を受け入れるしかなかった父はその後大学病院を辞めて島に移り住みました。以後、29年間、欠かさず島の医療を支えています」

あやめは悲しそうに楓の木を撫でながら言った。

「私が父から母の命を奪った。父の人生をこの島に縛り付けてしまった。だから、今度は私が父をこの島から解放してあげたい。父が望むべき本当の人生をもう一度やり直してほしいんです」

うっすらと涙を浮かべるあやめの表情は、悲しくも凛々しく決意に満ちていた。

「私の将来はこの島と共にあります。だから、光治さん、貴方と共にある未来を私は思い描くことはできないのです」

楓の木から腕を離し、光治と向き合ったあやめの顔には、何かを吹っ切ったような清々しさが漂っていた。
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