溺愛音感
(とっても、羨ましい……)
お財布の中身と相談せずに、好きなだけ「おせんべい」を買い漁ってみたいし、できれば好きなだけ引き籠っていたい。
(引き籠って、本は――読まないけど、映画を見たり、音楽を聴いたり、ゴロゴロしていたい。何も考えずに……何もせずに……ああ、でも……弾かずにはいられないか)
ロッカーの半分を占領している古びたヴァイオリンケースを目にし、苦い笑みが浮かぶ。
プロでもなく、アマチュアでもなく、人前で演奏する予定もない。
それでも、誰に聴かせるわけでもない音をただ紡ぐ――そんな日々を一年近く送っている。
好きだから、ではない。
弾けなくなるのが、怖いから。
弾けなくなったら、わたしには何もなくなってしまう。
ただ、それだけの理由だ。
「あ、今日も練習ですか?」
わたしがロッカーからヴァイオリンケースを取り出すのを見て、美湖ちゃんが弾く真似をする。
「うん。下手なりに練習しないと」
「通ってるの、駅前の音楽教室ですよね? 発表会とかないんですか? ハナさんが出るなら見に行くのに」
内心、ギクリとしながら嘘を重ねる。
「出るつもりはないけど、出るとしても見に来ちゃだめ。知った顔が客席にあると、緊張するもん」
実は、音楽教室には通っていない。
レッスン室のレンタ料金を確かめるために音楽教室に立ち寄ったのを偶然目撃され、勘違いされたのをそのままにしているだけだ。
練習は、レッスン室を借りるよりもはるかに安いカラオケボックスでしている。
「でもあれ、聴いてる方が本人よりも緊張するらしいですよ? わたしの卒業演奏会を聴きに来てた昔のカレシに、ハラハラしすぎて集中できなかったって言われましたし。親も、毎回緊張してたって言ってましたし。ま、わたしが下手だからかもしれませんけどね!」
美湖ちゃんはそう言ってケラケラと笑った。
たぶん彼女の言うように、普通は「ハラハラ」するものなのだろう。
(でも、お父さんはちがったなぁ……)
わたしの演奏を聴いている時の父の様子をたとえるなら、「ハラハラ」ではなく「ワクワク」。
いつでも平常心。「緊張」とは無縁の人で、だからこそ父が聴いてくれていると思うと、わたしも緊張せずに弾けた。