溺愛音感
女性との付き合いが一年以上長続きしたことのないマキくんの唯一の例外。
心臓が急に落ち着きをなくして鼓動を乱す。
言葉にできない、形にならない不安がじわりじわりと心の端から浸食してくる。
「その人、いまは……?」
聴かない方がいいとわかっていた。
けれど、聴かずにはいられなかった。
「音楽家には、なれなかった」
「……そう、なんだ」
どんなに才能があっても、コンクールで優勝しても、プロになれるとは限らない。
プロになったとしても、演奏活動だけで食べていける音楽家はひと握りに過ぎない。
途中で夢を諦め、音楽から遠ざかる人は少なくない。
何十年と練習と努力を積み重ね、それでも諦めなくてはならない人の方が圧倒的に多いのだ。
(それを思えば……たとえ一時でも、わたしがプロでいられたのは幸運だったのかも)
マキくんの元カノは、いまどんな気持ちでヴァイオリンと向き合っているのだろうか。
「そのひと……いまもヴァイオリンを弾いてるの? その……趣味とか、で」
「いや。もう、弾いていない」
「そっか……」
もう伴奏することはないのに、いつでも弾ける状態であるということは、いまも時々練習している証拠だ。
「一緒に弾く相手がいなくなって……マキくん、寂しかったんだね」
きっと、元カノと一緒に演奏するひと時は、マキくんにとっても楽しい時間だったにちがいない。
そう思ったのだが、思いがけない表情がその顔を過った。
痛み、苦しみ、後悔――俺様には似合わない、負の感情を示す翳。
そのくせ、口から吐き出されるのは、それとは正反対の言葉。
「寂しくなどなかった。別れてから、一度も思い出すことはなかった」