溺愛音感
二度と取り戻せない懐かしい日々を思い返しながら。
美湖ちゃんの心地よいおしゃべりに相槌を打ちながら。
カラオケボックスのある私鉄の駅まで歩き、二駅先のアパートへ帰るという彼女と別れた。
「ハナさん、お疲れさまでした~!」
「お疲れさま。気をつけて」
(さて、と……)
今夜はいろいろありすぎて、噛みしめ足りない。
堅さに定評のあるのりせんべいと甘辛い揚げせんべいをコンビニで仕入れる必要がある。
わたしが「おせんべい」なるものを知ったのは日本へ来て、ひとり暮らしを始めてから。
ある日、せっかく日本にいるのだから、日本らしいお菓子が食べたいと思い立ち、コンビニで見かけた日本チックなパッケージの「おせんべい」を興味本位で買ったら、ハマッてしまったのだ。
サクサク、ガリガリ、ふにゃふにゃ。
さまざまな歯ごたえと千差万別の形状。
ごま、塩、しょうゆ、甘辛にバターやトウガラシ、ピーナッツ入りまで、味のバリエーションも豊か。
毎日食べてもぜんぜん飽きないくらいの種類があるため、現在、わたしの主食はパンでもお米でもない。「おせんべい」だ。
ちなみに、苦手だったグリーンティーも、「おせんべい」のおかげで好きになった。
「おせんべい」と「グリーンティー」以上に、すばらしいマリアージュはないと思う。
いつの日か、出来たての「手焼きせんべい」なるものも食べてみたいと妄想しながら、コンビニへ向かうために駅前の広場を横切ろうとして、人だかりができていることに気がついた。
(バスキング……?)
ギターをかき鳴らし、オリジナルの歌を披露するミュージシャン。
軽妙なトークを交え、笑いを誘いながら、人間技とは思えない芸をする大道芸人。
コントを繰り広げるお笑い芸人の見習い。
冬の間には見かけなかった、パフォーマーたちが芸を披露していた。
大半の人が一瞥し、ただ通り過ぎて行くものの、中には足を止める人も少なからずいて、笑ったり、驚いたり。様々な反応を見せている。
そこに、強制は一切ない。
気に入らなければ立ち去ればいいし、気になるなら立ち止まればいい。
タダで楽しんでもいいし、価値があると思えばお金を払ってもいい。
ほんの少し前まで、わたしにとっての日常だった光景に懐かしさが込み上げる。
(自由、だなぁ……)
『a piacere』
イケメンの低く艶やかな声が耳の奥によみがえる。
『Suona, alla Hanna』
ふいに、狭いカラオケボックスでヴァイオリンを弾くのが、とても息苦しく思われた。