溺愛音感
甘やかされ、お世話される生活にどっぷり浸かり、いまとなっては野良に戻れる気がしなかった。
(マキくんの料理に舌が慣れてしまってるから、前のようなおせんべいが主食の生活には戻れないだろうし……)
深々と溜息を吐きソファーに身を投げ出した途端、お尻の下でスマホが震え出す。
今日は水曜日。
アルバイトの予定も入っていないし、人に会う予定もないが、ある人からの連絡を待ちわびていたので急いで着信履歴と通知を確認する。
案の定、待ち人からのメッセージが届いていた。
『れんらく、おそくなってごめんなさい。あす、よる七時、ごはんいっしょにたべませんか? メーガン』
姿勢を正し、『ぜひ!』と即座に返信する。
(これで、ようやくすっきりする……)
雪柳さんに手打ち蕎麦を奢ってもらった日、偶然道端でぶつかったメーガンさんは、なんと彼の大学時代の友人で、かつわたしの「空白の十日間」を埋められる唯一の人だった。
彼女は、日本を含めた数か国で弁護士として活動できる資格を保有するやり手で有能な弁護士。
日本語が堪能とあって、海外で活動する日本人からの依頼も多く、信頼も厚いようだ。
わたしの後始末をしてくれたのは、彼女であることを母にも確認した。
どんなにみっともない姿を晒していたのか、突き付けられるのは怖い。
でも、空白を埋めてしまわなければ、「過去」を「現在」から切り離せない。
(ちゃんと過去にケリをつけられたなら……前に進めるかもしれない)
母の前ですら弾けなかったヴァイオリンも、いまではマキくんの前で毎日のように弾いている。
大勢の人の前で弾けなかったけれど、路上演奏では問題なく弾けた。
少しずつ、内から外へ向かっている実感がある。
淡い期待が、徐々に色を帯び、濃くなっていくことに、いつまで目をつぶっていられるだろうか。
もしも、再び大勢の聴衆の前で演奏できるようになったなら。
もしも、もう一度夢を見られるなら。
心地よいこの部屋を、離れられるだろうか。
浮かんでは消えるいくつもの「もし」の答えを求め、結局一つも見つけられないことに溜息を吐いた時、手にしたスマホが震えた。
『スシレストラン、よやくしました。ちず、おくります』
(焦っても……どうにもできないか)
見つからない答えを探すのは諦めて、メーガンさんに『ありがとうございます』と返信した。