溺愛音感
『念のため、フランス語でもかまわないかしら? 聞き耳を立てるような人はいないとは思うけど、面倒の種をばら撒きたくはないから』
『かまいません』
婚約破棄、エージェントとの契約解除、損害賠償の交渉、日本への渡航手配など、面倒なことの一切を始末してくれたであろうメーガンさんの考えに、反対するつもりは微塵もなかった。
『ハナちゃん、元婚約者だった彼の家を訪ねたあとから、憶えていないのよね?』
『はい……』
目にした光景にショックを受けて部屋を飛び出してから、自分のアパートに戻ったかどうかすら、憶えていなかった。
『あの日、ハナちゃんは彼のところを飛び出したあと、おそらくあちこち歩き回った末、ハナちゃんのお父さんの眠る墓地で、ヴァイオリンケースを抱えて蹲ってたそうなの。そこに、ハナちゃんを知る人が偶然通りかかって、保護してくれたのよ』
『……ぜんぜん……憶えてません』
『そうでしょうね。あの時のハナちゃんは、自分の外で起きていることへ意識を向ける余裕はないようだったから。食事も、入浴も、排せつも、促せば自分でできるし、触れられても抵抗はしない。世話をするのはそれほど大変でもなかったみたい。でも、放って置くと一日中でもヴァイオリンを弾き続けようとするから、止めさせるのに苦労したって言っていたわ』
『あ、の…………』
わたしの面倒をみてくれたのは、てっきりメーガンさんだと思っていたから、伝聞口調なのが気になった。
メーガンさんは、わたしの疑問はわかっていると軽く頷き、答えをくれた。
『わたしがハナちゃんを預かったのは、音羽が迎えに来る直前。それまでは、ハナちゃんを保護してくれた彼が面倒を見てくれていたの。いまみたいにね』
『いま、みたいに?』
あまりに衝撃的な答え合わせに、頭が理解するのを拒否している。
いま、わたしの面倒を見ているのは俺様王子様で。
わたしを保護してくれた「彼」も、同じようにわたしの面倒を見ていて。
その二人が同一人物。
『マキくん、だったの……?』
『そうよ。柾は、ハナちゃんのこと、プロになる前から知っていたんですって。昔、ハナちゃんがお父さんと一緒に路上演奏しているのを何度も見かけていたそうよ』
『…………』
(いつ? いつ、どこで?)
何百、何千回と重ねた様々な場所での演奏をすべて思い起こすなんて無理だ。
よほど印象深い出来事でもなければ、記憶に残らない。