溺愛音感
『蓮に紹介してもらったと言って、自分に代わって音羽と連絡を取ってほしいとわたしに依頼して来たのも、柾なの』
『どうして……マキくん、教えてくれなかったの……?』
クロークで遭遇した時も、お見合いの時も、一緒に暮らしている時も、彼は一度もあの当時のわたしを「直接知っている」素振りは見せなかった。
『忘れているなら、思い出さないほうがいいと考えたんじゃないかしら? ハナちゃんにとっては、辛いだけの記憶だから。それに……柾にとっても、辛い記憶だったんだと思うわ』
『マキくんにも……?』
『詳しいことは訊いていないし、訊ける雰囲気でもなかったけれど……彼があの街に滞在していたのは、誰かの葬儀に参列するためだったんじゃないかと思う。あの季節には相応しくない、ブラックスーツ、ブラックタイ姿で墓地にいたとなれば、理由は一つしかないでしょう?』
もしそうなら、わざわざ日本から参列するくらいだ。
かなり親しい間柄で、彼にとって大事な人だったのだろう。
そんな時に、迷惑を掛けていたなんて、申し訳なさすぎる。
何一つ思い出せない自分が歯がゆくて、つい何も悪くないメーガンさんを問い詰めてしまう。
『でも……どうして、メーガンさんじゃなく、マキくんが面倒を見ていたんですか? どうして、メーガンさんじゃダメだったんですか?』
『わたしがダメというよりは……ハナちゃんがダメだったのよ』
『わ、たし……?』
『ハナちゃんが、柾から離れようとしなかったのよ』
彼女は、困り顔で当時の状況を説明してくれた。
『柾から連絡を貰ってすぐに、彼が滞在していたアパートを訊ねてハナちゃんと会ったんだけれど……連れ出そうとしたら、泣き喚いて抵抗されたの。わたしが話をするだけだと言っても、彼にしがみついて離れないし。部屋の中でも、柾の姿が見えないと探さずにはいられないし。お手上げだったわ。ハナちゃんの世話を引き継ごうにも、無理だったのよ』
『う……』
嘘だ、と言いたいところだが、そもそも記憶はないし、メーガンさんが見え透いた嘘を吐くはずもない。
『柾は、もともとハナちゃんの世話をするのがイヤで、わたしに預けようとしたわけではないから、そのまま自分が面倒を見ると言ったわ。ただ、ハナちゃんが自分と一緒にいると知れば音羽が余計に心配するだろうし、婚約破棄する際に、こちらの有責を疑われるようなことがあってはいけない。だから、周囲には一切黙っておこうと二人で話し合ったのよ。もちろん、永遠に黙っているつもりではなくて、ほとぼりが冷めるまで。ハナちゃんが落ち着いてから、折を見て音羽に事情を説明しようと思っていたんだけれど……』
メーガンさんは、忙しさにかまけて、アフターフォローがなっていなかったと謝罪した。
『音羽が迎えに来た時、ハナちゃんはまだ自分の殻に閉じこもっていたし、しばらく様子を見るつもりで、タイミングを窺っているうちに時間が経ってしまった。ごめんなさい』
『いえ……思い出せない方が、悪いんです』
憶えていないはずの記憶の欠片が、ふわりふわりと脳裏を過る。
捕まえようと手を伸ばした先を、するりするりと逃げて行く。
ヴァイオリンを弾いていたことは憶えているが、何を弾いていたのかも記憶にない。
目の前にいて、聴いていたはずの人のことすら、記憶にない。
思い出したいのに……ひとかけらも、思い出せない。
(どうして、何も思い出せないの……)
不甲斐ない自分が、心底嫌になる。