溺愛音感
ハナ、お見合いする①
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普通の人はバリバリ働いている平日の昼間。
もうすぐランチタイムになろうかという時間帯、高級ホテルのラウンジには優雅な暮らしを満喫しているマダムの集団が二組と、挙動不審のわたししかいなかった。
教育の行き届いたホテルのスタッフは不躾な視線を寄越したりしないが、落ち着かない。
誰もわたしのことなど気にも留めていないとわかっていても、場違いな感じが否めない。
(うう……早く来てよぉ……)
そわそわしながらスマホの時計とにらめっこをしていたら、約束の時間を十分過ぎたところで、ようやく待ち人が現れた。
「逃げ出すかと思ったけれど、ようやく現実を見る気になったのね。いいことだわ」
「音羽さん……」
ヒトを呼び出しておきながら堂々と遅刻して現れたのは、白っぽい着物姿の女性。
とても成人をとっくに過ぎた娘がいるとは思えない美貌とスタイルを誇る、クラシック界の女帝、女性ピアニストの「榊 音羽」御年四十X歳。
わたしの、「母」だ。
近づいて来たウエイターへ、メニューも見ずにアールグレイを注文した母は、しげしげとわたしの恰好を眺めた。
「無難すぎてちっとも面白みがないけれど、いつもの恰好よりは遥かにマシね」
「お、面白みがないって、音羽さんが勝手に決めたんじゃないっ!」
今朝、母の差し金であるスタイリストがアパートにやって来て、あでやかな振袖姿へ変身させられた。
淡いピンクの地に藤色の流水、桜の花が散りばめられている、とても上品なデザインだ。
わたしにはあまり似合っていない気もするが、初めての着物なのでよくわからない。
着てみた感想は……すてきだけれど、とにかく動きにくい。
「そうでもしなければ、お見合いにジーンズ・Tシャツで来るつもりだったでしょう?」
「そんなつもりは……」
ギロリと睨まれて、口ごもる。
(乗り気じゃないんだから、しかたないじゃない……)
先週、お見合いしなさいというメッセージを受け取ったが、結婚する気はまったくなかったので放置していた。
せっつかれても、のらりくらりとかわして、母が諦めるのを待つつもりだったのだ。
それが、まさかこんなに早く、しかも強制的に実行されるとは思ってもみなかった……。
「今日のお相手以上の優良物件なんて滅多にないんだから。次はないと思って、しっかり、がっちり捕獲しなさい!」
「捕獲……?」
「誰かに横取りされる前に、既成事実でも何でも作ってモノにしなさいってことよ」
「それ、犯罪じゃ……」
「終わり良ければ総て良しよ! ペットと一緒。常に傍にいれば、そのうち情が移るわ。とにかく、絶対にモノにしなさい」
反論は許さないと睨まれて、首を竦める。
(こ、怖い……何か、わたしの知らないところで大変なことが起きているような……)