溺愛音感


「病み上がりの僕は、しばらく後ろにいるつもりなんだ。せっかくだから、ハナちゃんと並んで座ろうかな」

「え、や、でも……」

「まだ踏ん張れなくってね。エアヴァイオリンってやつだよ」


ちょうどそこへ、指揮者と思われる男性が現れ、団員たちが準備を始めた。

美湖ちゃんとヨシヤも自分たちのパートの定位置へ。
わたしは、三輪さんに促されて、第一ヴァイオリンの一番後ろの席に座る。

ソリストとして、指揮者の側でしか弾いたことがなかったので、後ろからオーケストラの様子を見るのは新鮮だ。

しかも、三輪さんが小声であれこれと説明してくれるのでありがたい。


「いま取り組んでいるのは、夏の市民芸術祭にのせる予定のチャイコフスキーだよ」

「市民芸術祭?」

「アマチュアの楽団や学生の吹奏楽部、ダンスサークルやカラオケサークル。とにかくここの市民で結成された文科系の団体なら、誰でも参加できる催しで、音楽系のサークルは『KOKONOEホール』を使わせてもらえるんだ」

「へぇ……楽しそうですね?」

「うん。見てるだけでも楽しいよ。いろんな趣味の集まりがあるんだなぁって、勉強にもなるね」


三輪さんと話し込んでいるうちに、練習が始まった。

てっきり交響曲、メジャーなところで五番か六番だろうかと思っていたら、予想が外れる。


「これ……ヴァイオリン協奏曲ですか?」

「実は、僕がソリストやる予定なんだけど、この腰だからねぇ。しばらく、合わせての練習はできなさそうで。申し訳ない」

「でも、無理は禁物です」

「うん。指揮してるの僕の弟子なんだけど、この前のように本番直前でダメになったりしたら、絞め殺される」


指揮者は、友野さんと言って四十代半ばの男性だ。

クラシックファンの裾野を広げるのを自分の使命とし、音大の教授をしつつ、プロオケで振るだけでなく、アマオケの指導にも熱心なんだとか。

明快で、わかりやすい指揮。
的確な指示と助言、具体的な解決法を瞬時に提示する引き出しの豊富さ。
加えて、相手に合わせた言葉を選べるコミュニケーション能力も兼ね備えている。

ちょっとした面白い言い回しで団員たちの緊張を解したり、その気にさせたりして、集中力を保ちつつ、気持ちよく演奏させていた。

紛れもなくいい指揮者。

だが、容赦ない。


「三輪せんせー、さわりだけでもいいんでお願いできませんかねぇ?」


しばらく細切れにオケとやり取りしていたが、カカカッと指揮棒で譜面台を叩き、病み上がりの師匠を見据えてにっこり笑う。


「友野くん、僕の演奏家生命をぶった切る気かい?」

「いやいや、まだまだいけるでしょ。ほんの数小節でもいいんで」

「うーん……じゃあ、代打を出そう」

「いやいや、野球じゃないんですから」

「行ってくれるね? ハナちゃん」

「は?」


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