溺愛音感
「好きに弾いていいから。練習だし」
「え」
「代打、榊 絆杏。バッターボックスに入りまーす」
「み、みみみ三輪さんっ!?」
何を言い出すのだこのおじいちゃんは……と仰け反るわたしに、三輪さんはニコニコ笑いながら脅しをかける。
「まさか、腰を痛めて苦しむ老人の頼みを断ったりしないよね?」
(苦しんでるんじゃなく、楽しんでるよねっ!?)
「仕方ないなぁ。代打、ほら早く来て。引きずり出されたいの?」
(師匠が師匠なら、弟子も弟子……)
「ハナ。ただ聴いてるだけじゃ暇だろ? 弾けよ」
(バカヨシヤまで……)
団員たちが好奇に満ちたまなざしを向ける中、美湖ちゃんだけが申し訳なさそうな顔をしている。
三輪さんは、グズグズしているわたしの耳に、トドメのひと言を囁いた。
「女性は化粧で変わるって言うけれど……ジャケットの人物とは、まるで別人だよねぇ……」
「…………」
『Hanna』として活動していた時に出したCDのジャケットに写るのは、大胆な露出のドレスを着て、特殊メイクかと思うくらいのフルメイクをされたわたしだ。
あの姿を見ただけで、演奏も聴かずにいまのわたしと同じ人物だと見破れる人はいないはず。
三輪さんも、確信があるわけではないと思う。
(でも……)
いまはまだ、知られたくなかった。
『Hanna』ではなく、『ハナ』でいたかった。
「あれこれ考えずに、まずは弾いてごらん。何が起きても、全部指揮者のせいにすればいい」
三輪さんは、わたしが抱えていたヴァイオリンケースを勝手に開け、調弦までしてひょいっとわたしに差し出した。
「はい、よろしく~」
思わずヴァイオリンを受け取ってしまったら、もう弾くしかない。
(なんだか……出会う人みんな、俺様ばっかりな気がする……)
渋々立ち上がり、のろのろと指揮者の側へ。
コンマスが座る位置にいたのは、路上演奏で第一ヴァイオリンをしていた青年。
目が合うと励ますような、同情するような表情で頷かれた。
「じゃあ、頭っからいきまーす」