溺愛音感


友野さんが途中で止める素振りを見せなかったので、第一楽章を弾き切って、ようやく弓を下ろした。


しん、と静まり返った空間に居心地の悪さを感じ始めた時、俯いていた友野さんが顔を上げ、首を振った。


(だ、ダメだった……?)


何か失敗してしまっただろうかと青ざめた時、彼がぼそっと呟いた。



「……満塁逆転ホームランだ」


(はい?)


乾いた拍手の音、そして三輪さんの声が続く。


「ブラーヴァ」


それを合図に、ドラムのような鈍い足踏みの音が湧き起こった。


「うううっ……ハナさぁーんっ! 感動しましたぁっ! もう、めちゃくちゃよかったですぅぅっ!」


美湖ちゃんの嗚咽交じりの声が聞こえる。


「うん、三輪先生。心おきなく引退していいですよっ!」

「ちょっと友野くん、勝手に引退させないでよー」


どうやら、無事代打の役目は果たせたらしい。
ほっとして、三輪さんの横の席へ戻ってもいいかと訊こうとしたら、友野さんが再び指揮棒を構えた。

「じゃ、第二楽章いっちゃおうか」

「え」

「ご老体の三輪先生だと無理はきかないから、通しで練習できるのは本番前の数回くらいだけど、ハナちゃん若いから大丈夫でしょ。とりあえず最後までやって、それから気になるところ合わせてもらうね」

「えっと……」
 
「はーい、じゃ、続きいきまーす」


唖然としている間に演奏が始まってしまい、慌ててヴァイオリンを構え直す。

弾き始めれば、余計なことを考えている暇も余裕もなくなる。
哀愁を帯びた旋律を紡ぎ、休む間もなく第三楽章へ。

軽快で歯切れのよい音で独特なリズムを刻み、オーケストラとの掛け合いを繰り返し、ほぼ力技で最後まで弾き切った。

オーケストラを気にする余裕も、友野さんを見つめる余裕もなかった。
百点満点中、五十点もつけられない出来栄えだ。

額から流れ落ちる汗を拭い、恐る恐る団員たちの様子を窺うと……。

年配の団員はぐったりし、若者は何がおかしいのかくすくす笑っている。
友野さんもぐったり……というか、げっそりしている。


< 148 / 364 >

この作品をシェア

pagetop