溺愛音感
友野さんが途中で止める素振りを見せなかったので、第一楽章を弾き切って、ようやく弓を下ろした。
しん、と静まり返った空間に居心地の悪さを感じ始めた時、俯いていた友野さんが顔を上げ、首を振った。
(だ、ダメだった……?)
何か失敗してしまっただろうかと青ざめた時、彼がぼそっと呟いた。
「……満塁逆転ホームランだ」
(はい?)
乾いた拍手の音、そして三輪さんの声が続く。
「ブラーヴァ」
それを合図に、ドラムのような鈍い足踏みの音が湧き起こった。
「うううっ……ハナさぁーんっ! 感動しましたぁっ! もう、めちゃくちゃよかったですぅぅっ!」
美湖ちゃんの嗚咽交じりの声が聞こえる。
「うん、三輪先生。心おきなく引退していいですよっ!」
「ちょっと友野くん、勝手に引退させないでよー」
どうやら、無事代打の役目は果たせたらしい。
ほっとして、三輪さんの横の席へ戻ってもいいかと訊こうとしたら、友野さんが再び指揮棒を構えた。
「じゃ、第二楽章いっちゃおうか」
「え」
「ご老体の三輪先生だと無理はきかないから、通しで練習できるのは本番前の数回くらいだけど、ハナちゃん若いから大丈夫でしょ。とりあえず最後までやって、それから気になるところ合わせてもらうね」
「えっと……」
「はーい、じゃ、続きいきまーす」
唖然としている間に演奏が始まってしまい、慌ててヴァイオリンを構え直す。
弾き始めれば、余計なことを考えている暇も余裕もなくなる。
哀愁を帯びた旋律を紡ぎ、休む間もなく第三楽章へ。
軽快で歯切れのよい音で独特なリズムを刻み、オーケストラとの掛け合いを繰り返し、ほぼ力技で最後まで弾き切った。
オーケストラを気にする余裕も、友野さんを見つめる余裕もなかった。
百点満点中、五十点もつけられない出来栄えだ。
額から流れ落ちる汗を拭い、恐る恐る団員たちの様子を窺うと……。
年配の団員はぐったりし、若者は何がおかしいのかくすくす笑っている。
友野さんもぐったり……というか、げっそりしている。