溺愛音感
そんな予感にぶるりと身震いした時、粋な和装姿のご老人が現れた。
「音羽先生」
「会長! 本日はお忙しい中、お時間を割いていただき、本当にありがとうございます」
立ち上がった母が丁寧なお辞儀をすると、ご老人は顔をしかめて首を振る。
「他人行儀はよしてくれんかね? 松太郎でいいと言っとるだろう? こちらこそ、急に無理を言ってすまなかったね」
「いいえ。ちょうどスケジュールも空いていましたから」
「不肖の孫も、もうすぐ着くはずだ」
「平日の昼間なんて、とても忙しいでしょうに……恐縮です」
「忙しいからこそ、捕まえられる。平日のスケジュール管理は秘書がやっているからな。ひと言、重要な会合だと言っておけば時間を作ってくれるんだよ」
「ま。悪い人」
「いやいや。わしは、先生ほど策略家ではない」
「いやですわ! 策略家だなんて。ひとよりも、多少目端が利く程度です。その点、ハナはわたしに似ず、ぼーっとしているものですから。放っておくと、嫁き遅れになるのは確実です」
「しかし……聞きしに勝るかわいいお嬢さんだね? 音羽先生によく似ている」
松太郎さんは頑固そうな雰囲気を持っているが、笑うと優しいおじいちゃんに一変する。
「松太郎さんったら、お上手ですこと」
おほほ、と笑う母に脇腹を肘で突かれて、愛想笑いを浮かべる。
「……ありがとうございます」
「ああ、噂をすれば、来たようだな」
振り返るのはさすがにはしたないと思い、じっと我慢した。
どうにかして断るつもりだが、ここまで来たのだ。
どんな相手かひと目見たい。
母の言うように、本当にイケメン、セレブな三十五歳なのか気になる。
「お待たせして申し訳ありません」
耳に心地いいテノール。
向かいの席に腰を下ろした人を見て、驚きのあまり息が止まった。
明るい茶色の髪。
アンバーの瞳。
柔らかい印象の垂れ気味の目元や口角の上がった口元。
そんな甘さをキリッとした印象へ変えるメタルフレームの眼鏡。
そう、
目の前にいるのは、イケメンで。
クロークでわたしに暴言を吐いた社長(毒舌)だった。