溺愛音感
玄関を出るなり、雪柳さんの横顔に苦笑いが浮かんだ。
「面白い人たちだな」
「そう、ですね。親切で、いいヒトたちです」
「善良な人たちだと見ればわかる」
「あの……マキくん勝手に頼んだんですよね? すみません、わざわざ迎えに来てもらって……」
「大した手間じゃない。ちょうど帰宅するところだったから、ついでだ」
「でも……」
「柾の場合、よほどじゃないと頼って来ないから、何事かと思ったが……。愛犬の送迎くらいなら、お安い御用だ。それに、いざと言う時恩を売れるしな」
「なるほど」
さすがマキくんの友だちだ。
ただの「親切な人」では終わらない。
「それで、ハナは何がどうなってあの家に行くことになったんだ?」
「バイト上がりに、美湖ちゃんに、三輪さん……ぎっくり腰になったコンマスが会いたがっているって言われて、N市民交響楽団の練習に顔を出したの。前に、団の宣伝のための路上演奏で、その人の代理で弾いたから」
「それで?」
運転中の雪柳さんは、言葉短く先を促し、前方を見据えている。
「オケは、夏に開催される市民芸術祭で、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏することになっているんだけど……。ソリストの三輪さんがぎっくり腰のせいでまだまともに弾ける状態じゃないって言うから……わたしが、代役でしばらく練習に付き合うことになったの」
「なるほど。しかし、代役とは言っても、練習に参加するなら、結構な頻度で夜に家を空けることになるんじゃないか?」
「うん、いまのところは週に二回」
「練習場所はコミュニティホールか?」
「うん。時間帯は七時~九時くらい」
「それくらいの時間帯なら問題ないとは思うが、返事は?」
「まだ、してない」
「それなら、柾が帰って来てから、相談した上で返事をしたほうがいい。おそらく、反対はしないと思うが、送り迎えの問題もあるしな」
「や、そんなの電車で行けば……」
「ダメだ。日本の治安は海外に比べれば天と地の差があるが、過信してはいけない」
静かに、だが有無を言わせぬ雪柳さんの口調に、なんとなく姿勢を正す。
「……ふぁい」
「それで……楽しかったか?」
ちらりとこちらを見た雪柳さんは、優しい笑みを見せた。
「え?」
「ハナが楽しかったなら、柾もきっとOKするだろう」
「えっと……うん、楽しかった」
大変ではあったけれど、楽しかった。
もう行きたくないではなく、また行きたいと思えるほどに。