溺愛音感
「俺の出番はなしか?」
マキくんはあからさまにがっかりして見せた。
全部で十六曲からなるロザリオのソナタのうち十五曲は合奏曲だが、今夜弾く「パッサカリア」はヴァイオリンの独奏だ。
「うん。今日は、カレーとヴァイオリンでお疲れのマキくんを癒すのが目標だから」
「疲れてなどいない」
(素直じゃないなぁ。家族や友人には、弱音も愚痴も言えなくても、わたしにくらいは言えばいいのに……犬扱いなんだし)
都合よく、ヒトを犬にしてみたり、人間にしてみたり。
マキくんは勝手だ。
「……オジサンは無理しないほうがいいよ」
「なんだと? ハナ」
ソファーから立ち上がろうとしたところをひと睨みする。
「聴きたくないなら、弾かないよ」
「……聴く」
苛立ちを溜息で散らし、ドサッとソファーに身を投げ出す。
アンバーの瞳がまぶたに覆われるのを見届けてから、深呼吸し、弦に弓を滑らせた。
ビーバーは、分類すればバロック……ではあるけれど、バッハとはちがう。
ロザリオのソナタは、テーマに宗教色はあるものの「教会音楽」という感じはしないし、わたしの感覚で言うなら、「自由」だ。
苦手か得意かと言えば、得意な方だった。
とは言っても、「楽」に弾けるわけではない。
没頭しすぎず、かといって素っ気なくならないように演奏するのは骨が折れる。
空から音が降って来るように。
演奏する自分を俯瞰するような感覚を維持すること約十分。
ダウンで最後の音を静かに弾き終え、息を吐く。
マキくんの様子を窺えば、じっと目を閉じたまま動かない。
(寝て……る?)
音を立てないようにヴァイオリンをケースへしまい、息を殺してそっと近づき、ここぞとばかりに神様の最高傑作の造作をじっくり観察する。
(まつげも茶色だ……。髪と目の色薄いのは、どっかで日本人以外の血が混じっているのかな? 鼻も高いし。唇は、ちょっと薄めだけど形がよくて柔らかい。目尻のホクロって、泣きボクロっていうんだよね? でも、男の人だし、プライド高いし、滅多なことじゃ泣かないだろうし……。あ、でも、子どもの頃は、どうだったんだろう?)
一緒に住んでいても、知らないことはたくさんあって。
知りたいと思うことも、話したいこと、話してほしいこともたくさんある。
でも、たとえすべてを打ち明け、さらけ出したとしても、ちがう人間なのだから完璧に理解することは難しい。
むしろ、理解し合えなくて当然だ。
それでも、近づきたいと思う。
心も、身体も。
(和樹と付き合っていた時は、こんな気持ちにならなかった。一緒にいられれば、それだけでよかった。彼がわたしに見せてくれる部分だけで満足して、それがすべてだと思って……。もっと知りたいと思わなかったのは、もっと理解したいと思わなかったのは……)