溺愛音感
伸ばされた左手の薬指に嵌められた指輪が、街灯に反射するのを見て、我に返った。
鮮明な記憶を打ち消すように首を振り、後退りする。
話すことなどない、話したくもない。
思い出したくも、ない。
「ハナさんっ!」
ふらついたわたしの身体を美湖ちゃんが支え、ヨシヤがそんなわたしを背に庇うようにして和樹の前に立ちはだかる。
「おい。何者なのか知らないけど、ハナは会いたくなさそうだ。帰れよ」
「部外者は関係ない。話がしたいだけだ」
「部外者じゃないっ! ハナは、大事な仲間だ。二度とこんな風に待ち伏せするな。さもないと、警察に通報するぞっ!」
スマホを取り出したヨシヤに本気を見た和樹は、溜息を吐いて呟いた。
「今夜のところは諦める。でも……あの時のことを話すのは、ハナにとっても必要なことだと思う」
いまさら、何を言い訳しようというのか。
婚約破棄をしてから、一年足らずで結婚した人の言葉を信用するほどお人好しにはなれない。
「話す必要は、ない」
「俺の言葉を何一つ信じられないのはもっともなことだと思う。でも……ハナのヴァイオリンに惚れ込んで、大勢のひとに聴いてほしいと思った気持ちは、嘘じゃなかった。それだけは、信じてほしい」
「いい加減にしろっ!」
「ヨシヤっ!」
いまにも和樹に殴りかかりそうなヨシヤを美湖ちゃんが慌てて止める。
「いつでもいい。ハナの気持ちが落ち着いたら、連絡してくれ」
車のドアが閉まる音に続いて聞こえてきたエンジン音が遠ざかり、ヨシヤが地面に置かれた白い紙片を拾い上げた。
「……一応、受け取っておけ。何かあった時の証拠にもなる」
差し出されたのは、名刺。
裏面にプライベートの携帯電話番号と思われるものが書かれたそれを裏返せば、意外な社名と肩書が印刷されていた。
現在、彼が勤めていると思われる会社は、大手音楽関連会社。
わたしが美湖ちゃんに通っていると嘘を吐いた、駅前の音楽教室も運営しているところだった。
(しかも、講師って……どういうこと?)