溺愛音感
彼とは短くない付き合いだったが、一度も何かの楽器を演奏する姿を見たことがなかったし、そんな話も聞いたことがなかった。
「あー、やっぱり! あの人、どこかで見たことがあると思ったんです! 駅前の音楽教室でヴァイオリン教えてますよ」
横から名刺を覗き込んでいた美湖ちゃんの言葉に、さらに驚かされる。
「え……?」
「有名音大出で、海外留学経験あり。すごく教え方が上手くて人気らしいです。教えている生徒数は少ないみたいですけどね。荒川さんがあそこの音楽教室で子どもにピアノを習わせていて、イケメン講師がいるって、写真見せてもらったことあるんです」
(和樹が、ヴァイオリンを弾くなんて……知らなかった)
元婚約者との突然の遭遇、投げかけられた言葉だけでも十分混乱しているのに、いままで知らなかった彼の過去と現在を聞かされて、ますます混乱する。
「それって……もしかして、荒川さんがコンマスに誘って断られたのと同一人物か?」
「そう! コンマスじゃなくてもいいからって粘ったんだけど、自分はステージの上で演奏できるような人間じゃないからって言われたみたい」
「……なるほど」
ヨシヤは、ひとり納得した様子で呟くと「帰るぞ」と宣言し、立ち尽くすわたしを引きずるようにして、軽トラへ放り込んだ。
シートベルトをし、エンジンをかけてから、思い出したように美湖ちゃんに命じる。
「美湖、連絡しておけ」
「了ー解!」
何が了解なのかわからないが、美湖ちゃんは鞄からスマホを取り出すと、目にも留まらぬ速さで操作している。
これから行くと、ミツコさんにメッセージを送っているのかもしれない。