溺愛音感
和樹とは、あの日――浮気を目撃した日から今日まで、ひと言も直接言葉を交わしていなかった。
浮気の理由はもちろん、別れの言葉さえも、彼から聞いていないし、わたしも何も伝えていない。
空白の十日間は、おそらくメーガンさんによって彼からの連絡は遮断されていたのだろうけれど、その後、日本へ来てからも連絡を取ろうだなんて思わなかった。
知らない間にすべてが片付いていたことに不安を覚えるより、「何も考えなくていいんだ」とほっとする気持ちのほうが大きかったから。
母――音羽さんからは、彼の有責による婚約破棄となったこと。
今後わたしが音楽活動を再開した場合のことを考えて、契約解除についてはエージェント側と示談が成立していること。
そして、彼――和樹がわたしと関わることは、今後一切ないことを聞かされただけだった。
疑問に思うことはいくつもあったけれど、考え出したら彼に会わずにはいられなくなりそうで、考えること自体を放棄した。
実際、考える余裕もなかった。
日本で生活していくために、言葉を初めとして、覚え、慣れなくてはいけないことが山のようにあった。
毎日のように新しいこと、知らないことに出会い、必死に知識を吸収するだけで手一杯だった。
いまではすっかり日本に慣れ、何の不自由も感じていないが、だからと言って、和樹ともう一度関わりたいとは思わない。
どんな事情があったにせよ、彼が婚約者であるわたし以外の女性と肉体関係を持っていたのは事実。
しかも、現在彼は結婚もしているようだし、復縁する可能性はゼロだ。
この先、わたしたちの人生が交わることは、二度とないだろう。
過去を振り返っても、いいことなんんて何もない。
貰った名刺を捨てて、それでおしまいにする。
それが一番いい。