溺愛音感
そう思っていたのに、マキくんはわたしが選ぼうとしている消極的な解決方法を否定した。
「確かに『現在』は変わらない。だが、いまならば、あの時には見えなかったものが、見えるかもしれない。気づかなかったこと、理解できなかったことがわかるかもしれない。目を逸らし、いくら逃げ回っていても、過去は消えないんだ。あったことは、なくならない。だったら、捉え方を変えるしかない」
「…………」
「もちろん、アイツを許す必要はない。知ることと、許すことは同義ではないんだ。だが……ある一つの出来事で、すべての事実が塗り替えられるわけじゃないだろう? 婚約者としては最低の男でも、エージェントとしては有能で、優秀。ハナにとって最高のパートナーだったんじゃないか?」
マキくんは和樹のことを嫌っているにちがいないのに、彼の肩を持つようなことを言うのが解せなかった。
「だけ、どっ……」
「多くの人間が、プロになる夢叶わずに、諦めていく。たとえ夢が叶っても、敷居の高い老舗のオケや巨匠と呼ばれる指揮者と共演できる幸運に恵まれるのは、ひと握り。コンクールでの優勝経験もない、まったく無名の新人だったハナが、偶然掴めるような幸運ではない。それが叶ったのは、やり方はともかくとして、アイツがハナを懸命に売り込んだからだ」
当時、次々と舞い込む大物指揮者や歴史あるオーケストラとの共演に、自分の幸運をどんなに感謝したかしれない。
もちろん、それが当たり前だと思っていたわけではないけれど、どれほど稀なことなのか理解していたかと言われれば……、
(ちゃんと……わかっていなかったかも)
エージェントというものがどんなものなのか。
普通は、どこまで仕事として請け負ってくれるものなのか。
比較の対象を持たないわたしには、わからなかった。