溺愛音感
路上でわたしを拾った和樹は、とにかくあらゆることをしてくれた。
各指揮者やオケの特徴、彼らとの付き合い方、パーティーでの振る舞い方。演奏にかかわること以外も親身になってアドバイスしてくれた。
高級レストランとは無縁だったわたしにマナーを教え、スラング交じりの言葉を正し、どうすれば「あちら側」の住人に受け入れられるのかを教えてくれた。
演奏についても、客観的で的確な意見や感想を述べてくれたし、一つのステージが終わるたびに、お祝いだと言って食事に誘ってくれた。
髪型、化粧、服装。
ちょっとしたわたしの変化を見逃さずに褒め、女性としての自信を与えてくれた。
好意が「憧れ」に代わり、それが「恋」になって、「恋」がやがてもっと深く広く、長く続くものへと形を変える可能性を疑いさえしなかった。
彼と一緒にいれば、もっと遠く、もっと高い場所にも手が届く気がした。
だから、彼の裏切りによって、すべてが嘘――ニセモノだったように思われた。
彼がわたしのヴァイオリンを好きだと言ってくれたのが「嘘」ならば、彼がくれた愛情もニセモノ。彼と作り上げた『Hanna』も、ニセモノ。
夢は、あくまでも夢で、現実ではなかったのだと思った。
和樹とは、もう一緒に未来を歩きたいとも思わない。
そんな未来を想像することさえできない。
彼のことなど「最低な男」として、記憶の彼方に葬り去ってしまいたい。
それなのに、夢の残り香がまとわりついて離れない。
『ハナのヴァイオリンに惚れ込んで、大勢のひとに聴いてほしいと思った気持ちは、嘘じゃなかった』
それなのに、いまも彼の言葉を信じたいと思う、自分がいる。