溺愛音感
ハナ、過去を思い出す
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いまから五年ほど前、二十歳になって間もないある日。
いつものように父の友人たちと路上演奏していたわたしは、「きみ、面白いね?」とスカウトされ、「プロのはしくれ」になった。
コンクールに出たこともなく、高名な先生に弟子入りしたこともない。
音楽学校どころか、普通の学校にさえ通ったことがない。
到底クラシックの世界では受け入れられないはずだった。
しかし、なかなか力のあるエージェントだったようで、ガンガン売り込んでくれた結果、思いがけず名だたるオーケストラとの共演が叶い、音楽雑誌やテレビなどのインタビュー、権威ある批評家との対談、CDの制作と次々仕事が舞い込んだ。
目の回るような忙しさに追われながらも、路上で演奏をしていたときより遥かに多くの拍手や称賛、報酬を受け取った。
明日の食料にも事欠く有様だった極貧生活は一変。
一流のものに囲まれる、贅沢な暮らしを送るようになったけれど、楽しいことばかりではなかった。
スポンサー企業のオーナー、貴族の称号を持つ後援者、代々音楽家を排出している名門出身の演奏家や指揮者。
あちら側の人々――上流階級の住人との付き合いは、窮屈で居心地の悪いものだった。
もとから「あちら側」の住人ではなかったわたしが、彼らと同じ存在になれるはずもない。
わかっていたけれど、プロのヴァイオリニストとして生きていくために、きれいなドレスを着て、引きつった笑みを浮かべ、「あちら側」の生活に染まろうと努力した。
無理をして手に入れたものを失うのは、あっという間だった。
プロになって三年目を迎えようとしていたある日、入退院を繰り返していた父が亡くなった。
もともとプライベートな情報を開示しないことを売りにしていたから、静かに父の死を悼むことができた。
ところが、父の死から半年が過ぎた頃、わたしの生い立ちを書いた記事が日本のゴシップ誌に掲載された。
初めは日本でだけ取り上げられていたけれど、やがて翻訳された記事が逆輸入され、インターネット上で広まった。
記事は、わたしの父が主に路上演奏で生計を立てていたこと。
ピアニストの母は、自分のキャリアのために幼いわたしと父を捨てたこと。
いろんな国を渡り歩く父に育てられたわたしは、義務教育すら受けていないこと。
父が病気になって、ヴァイオリンを弾けなくなってからは、わたしが路上演奏で稼いだお金で生活を支えていたことなどを綴ったものだった。
多少大袈裟で、感傷的な文章ではあれど、ほぼ事実。
否定するつもりも、大げさに騒ぎ立てるつもりはなかった。
けれど、どうしてそんな情報が出回ったのかは気になったので、念のため調べてほしいとエージェントに頼んだら、意外な事実が判明した。
ゴシップ誌に情報を流したのは、パパラッチや知り合いなどではなく、エージェントでわたしを担当していた「相馬 和樹」。
わたしの婚約者だった。